それに行き会ったのは、なにも特別な日なんかじゃない。
至極普通の日常の中の、至極普通の時間の流れで。たまたま異質なモノと出会ってしまった、ただそれだけのことだった。
小学校の帰り道。友達と別れて一人きりになった道で。あたしはそれに出会った。
それは、真っ黒な、しかし影よりも黒々とした塊の、けれど無機質ではなく。つやつや、ふさふさとした質感の、……ああそうだ。獣の毛皮だ。
そこには飲み込まれそうなほどに黒一色の大きな獣が、一本の木の下に出来た影の中に、どっしりと座っていたのだ。
黒の獣は
唸るでもなく
睨むでもなく、その体色に似合わず透き通るような蒼い目で、わずかに紅色のにじみ始めた空を、静かに見つめていた。思わぬモノに出くわして硬直するあたしの姿など、まるで眼中にない。
――さびしい顔だ。
ふと、そう思った。何故そう思ったのかは知らない。獣の表情などあたしの専門ではないし、読み取れるはずもないのに。何故だか、思ったのだ。この獣はさびしい気持ちでいるのだと。
『
娘子。
儂が見えるのか』
はっとした。
獣はいつの間にか完全にこちらを向いていた。
あたしは驚いた。獣に見られていることではない。この獣は口が利ける。まだ誰の物と決まったわけではないその声を聞いて、直感的にそう思ってしまった、否、理解してしまったからである。
『驚かれたか』
獣は全てを見透かすような透き通る色の双眸で、あたしを完全に捕らえている。
この瞳、この声、これは恐らくこの世の物ではない。
あたしは直感し、震えた。
獣はそんな私の様子を見て、カッカッと言った。笑っているようだった。
『怯えることはない、恐れることはないのだ娘子よ。儂はただ、久方ぶりに儂の姿を見ることが出来た人間と話がしとうて呼びかけたのじゃ。なにも取って食ろうたりせぬわ。カッカ』
獣は老人のような口調で語った。どこか愉快そうだった。
思いがけず敵意のなさそうな様子に、あたしは恐る恐る尋ねた。
「……何者、なの?」
『儂か。儂は虎じゃよ』
おっかなびっくりの質問に、獣は即座に答えて見せた。まるでそう聞かれるのをあらかじめ分かっていて、模範解答を用意していたみたいに早かった。
むしろこのやり取りをするために、始めに名乗らなかった様ですらあった。
そうか。この獣は――虎は楽しんでいるのだ。久方ぶりだと言った、姿を見た人間との会話を。
しかし、妙だった。
虎といえば、大抵の人間は老若男女問わず金色か白の身体に黒い
縞模様のある、多くの動物園で飼育されている
あの生き物を連想する。
しかし目の前の虎を名乗るモノどこまでも深い深い黒一色で、金毛でも虎柄でもありやしない。
加え、日影に伏しているせいか
輪郭さえも曖昧で、果たして本当に虎なのかさえ怪しい。どちらかというなら熊ではないのか? とすら思う。
疑問に思い、眼前の獣を注視する。
……かすかに、黒の度合いが違う縞が見える、ような気がしなくもないが……。
『儂が真実に虎か疑うておるな』
そのとき不意にまた虎が喋り、あたしはどきりとした。
――心を見透かされた?
『なぁに、御主のような娘子の考えることなどお見通しよ。儂もかつては「見通しの虎」と呼ばれた身、なにを訊かれるかなど顔を合わせた初めからわかっておった』
カカカと笑い、虎は続けた。
『娘 子。儂も若い頃はたしかに虎柄の虎じゃったよ。そんじょそこらの虎に比べて、えらく立派な毛皮じゃった。毛皮の素晴らしさじゃあ、儂に適う虎なんぞ一匹もお らんかった。だが儂も老いた。毛艶も色も見劣りして、立派な毛皮でなくなった。だが、でもな。それだけじゃア毛が真っ黒になったりはせん……』
虎はそこまで言うと、何かを思い出したようにうなだれた。
「一体、何があったのさ」
好奇心のままにあたしが訊ねると、虎は頭を上げて悲しい声で言った。
『
さる連中との
戦に負けちまったのサ。仲間も大勢殺された。儂も老骨に鞭打って闘ったが、奴らは強すぎた。この老いぼれは殺されこそしなかったが、捕まって毛を剥がれ、真っ黒に焼かれてこの様よ』
虎は自嘲気味に力無く笑った。
「先の戦」があたしが習った「戦争」に相当するのか、それとも彼らしか知らない戦いがあったのか。定かではないが、よほどのことがあったことは明らかだった。
この老虎は命を賭して戦い、こんな姿へと変えられてしまったのだ。
仲間を失い、かつて自慢だった毛皮を失い、一体どの様な心持ちなのだろうか。
辛い? 悲しい? 憎い? 恨めしい?
表面的には何とでも表せるその感情。残念ながら人生経験がたったの十数年しかなく、戦争も飢餓もなくぬくぬくと育ったあたしには、それを言い表すことが出来なかった。
それからしばらく、あたしも虎も黙っていた。
大した時間ではなかっただろうけれど、空はじわじわと紅く染まり、日は傾き。影はにじんで闇となり、虎の輪郭をよりいっそう曖昧なものにしていった。
虎の形がおぼろげになって、しかし蒼の瞳だけがくっきりとそこにあるのを確認し、安堵の溜め息を吐いたとき。唐突に虎が口を開いた。
『娘子よ、娘子よ』
その呼びかけに、あたしは「なに」と一言返した。
それを聞くなり虎はやや嬉しそうな声音になって、弾むような調子で言葉をつづけた。
『再び儂と話せる人の子に出会えるとは思うてもみなかった。こうして出会えたのも何かの縁じゃ。稀有な力を持つ娘子よ、記念にこの老いぼれに名前を教えてくれぬか?』
「あたしの名前? 私はし――」
言いかけて、止まった。
そう言えば以前聞いたことがある。名前は『
呪』だと。魂の一部だと。人でないモノの類に、安易に自分の名前を教えてはならないと。
教えてくれた子の顔がふっと頭を過って、口にしかけた名前を喉の奥へと引っ込める。
けれどそんな考えもまたこの虎には見透かされていたようだ。
『なァに、知って御主をどうこうする気はない。取って食ろうても御主のような小娘では腹の足しにもなりもせんし、傷を癒すことも叶わんて、じゃからただ、教えて欲しいのじゃ』
虎は言った。優しい声音で。あまりに敵意も悪意も感じないその声に、だから、あたしは。
「あたし、は……」
騙されてしまった。
「――しらなぎきょうこ」
なにが悪かったのか。
いや、あたしはちっとも悪いことなんてしたいない。
しいて悪いものがあったとするなら、それはあの日のあの時間にあの場所を通り、黒の虎を見てしまった間の悪さ。
名を聞いた虎は人間のようにニィィと笑って、口角を耳元まで吊り上げて。
『良い子じゃ、素直な良い子じゃ』
のそりと起き上がって、語りながらあたしに一歩一歩近づいてきて。
『儂の命はもう絶える、儂の一族はもう絶える。じゃからして、ゆえに』
足取りはよろよろとしていた。「先の戦」とやらで本当に弱っていたのだとおのずと理解できた。理解できたけれど、それはともかく、身体が動かない。
虎はもうかなり近い。その体は近付けば近づくほどに思っていたより大きいとわかる。何メートルあるだろうか。昔動物園で見た虎よりも一回り二回りは大きいと思った。危険かもしれない、とやっとおもった。けれども身体が動かないのだ。
まるで景色という布の中に縫い付けられてしまったように、頭の天辺から足のつま先まで、手指の一本、眼球の向く位置に至るまで。まったく意思の思うとおりにならない。当然声も出ない。……逃走も抵抗も、できない。
そんなあたしの目と鼻の先まで顔を近づけて、虎は言った。
『儂らの代わりに果たして欲しいのじゃ。もう時がないでな、御主にしか頼れんでな。すべてを"しらなぎきょうこ"、御主に託すとしよう』
蒼い瞳があたしの目をじっと見つめた。その蒼の中に、朝が明ける前のような黄色がかった光が見えた。
(――きれいだな)
食べられるかもしれない瀬戸際だというのに、あたしは素直にそう思った。
虎の瞳は綺麗だった。
直後その綺麗な瞳の中に吸い込まれていくような感覚があったけれど、そのときにはもう、逃げようとか嫌だとか、そんな考えは消し飛んでしまっていて。
『我が一族の血伝・見通しの【虎の目】を以て。きっと果たして、くりゃれよ――』
そんな声を聞いたような記憶を最後に、あたしは。
きっとそのまま気を失っていたのだろう。
気づいたとき、あたしは同じあの道の上にぼんやりと立っていて。
辺りは少しだけ暗くなっていて、そして目の前にはもう、真っ黒な虎のようなものはいなかった。
なんだったんだろう。夢だったのかな。妄想だったのかな。
なんだか狐につままれたような気分になって、急いで家路につくあたしは、……なにも気づいていなかった。
あのとき起こった本当のことを。なにをされなにを託されたのかを。
それを知るのは、もう何年か後になってからになるのだ。
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