「最後くらい、夢を見てみようかと思うんだ」
我が幼馴染の腐れ縁・
八尾異がふとそう言ったのは、2016年の春先のことだった。
場所はたしか、彼女の家。それまでどんな会話の流れだったかはよく覚えていないが、「最後くらい」から続いたその言葉以降のやり取りは未だはっきりと思い出せる。
「なんだよ最後って」
私はすかさずそう言った。悪質なジョークだと思ってヘラヘラしながら気軽に言った。
異はそんな私につられるようにクスクスと笑い、
「まあ、ぼくもいつまでもはこうして居られないからね」
と、自身の右足をそっとさするのだった。
異がそこに最悪の重傷を負ったのは、二年前の夏のことだった。
損壊、と言うのだろうか。≪ある事件≫によって、彼女の右足は一度これ以上ないまでに原型を失っていた。早期の治療で奇跡的に形ばかりは取り戻したが、それでも機能障害は残り、彼女は今に至るまで杖を突いて生活しているし、傷痕は恐らく一生残るだろう。
私も周囲も心配したものだが、当の彼女は≪事件≫の後もそれまで通りであり続けた。
せいぜい、以前よりも少々ひきこもりがちに――いや、ひきこもりがちは元からなのだが、”軍資金”ほしさにしていたコンビニバイトを止めるはめになったと愚痴ったくらいか。そんなささやかな変化があったくらいで、異はその日も以前と同じく、同人誌の原稿をしながら私の話相手をしていた。漫画を描くのが彼女の昔からの趣味だった。
私としては怪我をした彼女に生きがいとなりそうな趣味があって良かったと思っていたが、当の異本人は「いつまでもこうしては居られない」と言う。
「漫画やめるの?」
「まあ、ゆくゆくは」
異はペンを置くと、私を真っ直ぐに見つめた。
「――この世界に永遠不変はない。
斬子だって来年には大学を出るだろう? ぼくだっていつまでも引き籠っているわけにもいかない。というわけで」
仕切り直すようにニヤリと笑い、異は言うのだ。
「漫画賞に出してみようかと思う」
「……そういうこと」
私は呆れてのけぞった。多分おじさんあたりに「そろそろなんでもいいから働き口をさがせ」と言われたのだろう、それできっと最後なのだ、と。
そのときの私はそう解釈した。
「まあ、やってみたら」
「かすりもしなかったらすっぱり諦めるさ」
「締め切りとかいつなのさ」
「三月末。三十一日当日消印有効」
「……あと二週間もないじゃん。間に合うの?」
と、上体を起こした私と目が合った異はふふんと笑い、「だから今描いてるのさ」と液晶タブレットを向けた。てっきりいつも通り同人誌の原稿だと思い込んでいたが、どうやらそうではなかったらしい。
異の原稿はそれから数日後に完成した。
「試しに読んでみて」と渡された31ページの原稿は、少なくとも私にはずいぶん完成度の高いものに思えたし、話もまとまっていたように思う。
思えば、彼女の漫画をまともに読んだのは多分その時がはじめてだった。
「なんで今まで見せてくれなかったのさ」とつついたら、異は「その内読ませるさ」とはにかんだ。
必要条件を何度も何度も確認して、原稿は某有名出版社へと送られた。
ほどなくして私は大学四年生になり、卒業論文やら就職活動やらに追われてしばらく異に会えなかった。
就活の方が一段落ついた七月の頭、異に「映画でも観に行かないかい」と誘われた。
卒論にやや行き詰っていた私は、気分転換にでもなればいいかとその誘いに乗った。
最寄りの映画館が二つ隣の市の田んぼの真ん中に建つモールというのが田舎のつらいところだ。けれど中高生だった昔と違って今は自動車運転免許があるので、県内ならば昔ほど苦ではない。
モール内でやや早めのランチを済ませてから映画館に向かう。映画に誘ってくるのは大抵異からなので何を観るかはいつも任せているが、彼女が選ぶのは大抵ホラーか推理サスペンスだ。
その日もまた嬉々としてホラー映画のタイトルを告げるので、杖持ちの彼女に代わって私が発券した。
自前の霊感があるくせに、異は本当にホラーが大好きだ。何年か前にどうしてかと訊ねてみたとき、異は笑って「”普通”の世界が見えるから」と答えただけだった。その”普通”がなにを意味していたかは定かでないが、多分、常に視えている彼女としては映画の中の一般人の視点の方が珍しかったのではないか、それを”普通”と言っていたのではないか……と私は思う。
ちなみに推理モノやサスペンスが好きな理由は訊いても絶対に教えてくれなかった。
上映が始まり、そこそこ席の埋まった暗い劇場内では時折小さな悲鳴が上がっていた。
私も作り物と分かりつつぞわりとしたりひやりとしたり、製作者の意図にまんまと乗せられていたのだが、そういうときにふと横を見てみると、スクリーンの光にうっすらと照らし出される異の顔は澄ましたように落ち着いている。いつものことだ。
そういえばやはり以前、「映画の幽霊は本物じゃないから怖くないのか」と訊いてみたことがあった。
「視えるとか視えないとか、本物か偽物かはあまり関係ないよ。今自分が襲われてないから、そうでもないだけ」
異は確かそう答え、「でも内心ではちゃんと怖いよ」と真相不明のフォローをしていた。
この瞬間もそうだったのだろうか。内心では怖がっていたのだろうか。
……よくよく考えたら。ずっと幼い日から、そのときまで。異が”普通”に怖がっている姿を、私は見たことがなかった。
映画が終わって、上手い具合に混雑ピークの終わったフードコート内でぼちぼち感想を言い合っていると、異が唐突に「ところで」と切り出した。
荷物をごそごそとあさり、分厚い本を取り出す。それは某有名週刊少年漫画誌で、もう一月ばかり前の号だった。
「君ずっと忙しそうだったし、多分忘れてるだろうから」
言って彼女はパラパラとページをめくり、おそらくその為にカドを折ったであろうページにあたると、大きく広げて私の方に向けた。
「佳作に入った」
と、彼女はページの隅を指さした。やや遅れて気付いたのだが、それは漫画賞の受賞者発表のページで、細い指の示す先には確かに異の名前がある。
指摘された通り、自分自身のことが忙しくて漫画賞のことなんてすっかり忘れていた。
「すごいじゃん! やるじゃん!」
公共の場ということを一瞬忘れて大声を上げる私に対し、異はきわめて落ち着いた様子で――というか、彼女にとっては一ヶ月も前のことなので落ち着いているのも当然だ――はにかんで、「ありがとう」と言った。
「先のことになるけれど、年末に授賞式があるんだって。佳作だから掲載権はないけど賞金はずいぶん貰えるらしいよ。まあギリギリだよね」
「そんなことないよ! 充分すごいじゃんか! よく知らないけど佳作でも編集部の目に留まれば担当さんとかつくんじゃないの? 目指せるよ!」
「まだなにも決まってないよ。まったく気が早いなあ斬子は」
今にしておもえば、私はその時異が言った”ギリギリ”の意味をちっとも理解していなかった。
そこそこ高額の賞金をどう使おうかとかデビューしたらどうしようとか、本人以上に浮かれてしまっていて。そんな私を見る異の顔は――そういえば映画の最中に見たのと同じ澄ました表情だった気がする。
――でも内心ではちゃんと怖いよ。
「ぼくもやれたんだから、君もがんばりなよ」
その日の別れ際、異は私のことをそう激励してくれた。帰った後の論文作業は浮かれもあってかよく進んだ。
それからほどなく、大学が夏休みに入った。相変わらずやることもまだあったが、異とは更に二度ほど映画に行った。どちらも珍しくホラーでも推理モノでもなくて、そしてどちらも二人で観た後でリピーターが続出する程の話題作になっていた。……我が友ながらとんでもないアンテナ感度だ。
「まさかあんたと特撮とアニメみるとは思わなかったわ。普段テレビでやってるやつの劇場版だって円盤待ってるのにさ、どういう心境の変化よ?」
「いいじゃあないか。こういうのも思い出づくりだよ」
そう答えて振り向いたときの異の表情は、いつもより妙に優しい気がした。
そんな話をしたのはたしか、大学の夏休みが終わる前、異の家に寄ったときのことだった。異は客の私がいるというのに祖霊舎(神道式の仏壇のようなもの)のお供えを新しくしていて、私はその様子を異の部屋のちゃぶ台に突っ伏しながらぼんやり眺めていた。
「思い出づくりなんてのも普段言わなくない? 最近ちょっとおかしくない?」
「おかしくないよ。いつも通りさ」
素っ気なく言ってくるりと背を向け、異は祖霊舎に二礼・二拍手・一礼した。
「それよりも今年も
和憲は帰ってこなかったわけだけれど、ちゃんと単位は取ってるんだろうか?」
「さあ? 知らない」
「東京で斬子より可愛い彼女を作ってたりしてね」
「……知らない! ていうか話題逸らしてるでしょ!?」
「逸らしてないよ。世間話さ。みんな今頃どうしてるんだか」
異は祖霊舎から目を逸らし、庭の方を見つめた。
「たとえば、この間観に行った映画が動員数何百万人でブームになってるって話題を聞くと、ぼくは考えたりするわけさ。最近会わない和憲はその何百万人の中にいるかなあとか、……いや、彼のことだから観てないかもなあ、とか。
一縷や、
いっちゃんや――
丹夜はどうしてるだろう、とか」
「……丹夜のことなんてどうでもいいじゃん」
”丹夜”。穏やかに言う異とは真逆に、私の心はその名前を聞いただけでざわついた。
東京の大学に出て行ったきり付き合いの悪くなったもう一人の幼馴染だとか、行方不明になった同級生たちだとかはまあいい。けれど≪首接丹夜≫だけは話が別だ。
二年前にこの町を去った丹夜は、私達に対してとんでもない裏切りをしていった。私はそのことを今でも許していないし、忘れてやる気もさらさらない。……それに多分、異に会うたび思い出し続ける。≪あのこと≫は。
けれど当の異は杖を突いて立ち上がると少し困ったように笑い、言うのだ。
「どうでもよくないよ。一応友達だからね」
友達、と。
「……あんなの友達でもなんでもないよ。詫びない限り一生絶対許さない」
「厳しいなあ。……まあぼくも仲良くは出来ないかもしれないけれど、それでもまあ友達だ。こんな風にされてもね」
言いながら異はゆっくりと私の側に座った。その都度その都度大変そうに立ったり座ったりする異を見ると、やっぱり私は丹夜を許す気にはならなかった。
「異は甘いんだよ。あんな子でも許しちゃう。だから足潰されるんだ」
そうまでされてもニコニコしている異への嫌味と哀れみと、これ以上傷付いてほしくないお節介と。自分でも上手く形容できない感情を入り交ぜて私が吐いた少々の”棘”に、異はやっぱり笑って「そうかもね」と返した。
「それでも時々心配になるよ。今頃みんなはどうしているんだろうね」
私は何も答えなかった。異も特に何も言わない。家には他に誰もいなかったから、少しの間静かになった。
古い壁時計がカチカチと音を刻む音と、豪邸と言って差し支えない八尾家の庭に作られた池と小川に流れる水の音だけがやけに耳に残っている。
所謂気まずい沈黙とは何か違っていた。ただ時の流れの行くままに、互いに険悪になりかけた空気を流そうとしていたのかもしれない。
何分か黙っていると、池の鯉がぱちゃんと跳ねた。それがきっかけだったように、私は新しい話題を思いついた。
「あんた、そういえば漫画描かないの? まだ佳作だから次の賞とか出さないとでしょう?」
「描いてはいるよ。間に合うかは知らない」
――と、液晶タブレットの電源をつけながら答えた異の”間に合う”は、後になって考えるに、やっぱり私が思っていた意味とは違ったのではないかと思う。
けれど、その真相は彼女しか知らない。
それからまた大学のことや家のことで忙しくて、異には会えなかった。
そして、異に”最後”に会ったのは忘れもしない2016年12月30日、大晦日生まれの彼女の誕生日、その前日のことだった。
「この前授賞式に行ってきたよ」
場所はやっぱり彼女の家で。どことなく上機嫌に彼女が示す棚の上には小さな盾が、その上の
長押の上の額縁には佳作入選の賞状が誇らしげに飾られている。
「ぼくは別に額縁になんて入れてくれなくてもよかったんだけれど、元々学校は休みがちであまり賞状は持っていなかったから、家族が喜んでさ」
当人はそんな風に言っていたけれど、きっと照れ隠しだった。きっと内心嬉しかったし、本当は私に自慢したくて仕方なかったに違いない。
「今のお気持ちのほどはどうですか? 未来の大先生」
「どうってほどでもないよ、からかわないでくれないかなあ。来年から公務員?」
「公務員馬鹿にしてると将来痛い目みるよ?」
「どんな痛い目だい」
などとじゃれている途中で、異が思い出したように「そうだ」と言った。「この間和憲に会ったよ」と。
「なんだあいつ、私の方には挨拶なしか」
「まあまあ、うちに来たのは帰って来たばかりのところだったから、今頃は家で裁子ちゃんに捕まってるんだろう。正月からは親戚連中に引っ張りだこだろうし君んちもぼくんちも忙しいだろうから、落ち着いて会えるのはもう少し先かもね」
田舎のよくある世間話風に言った後で、「それはそうとして」と異は続けた。
「和憲かっこよくなってたよ。垢抜けたというか、いやチャラくはなってないけど。あと今は彼女いないらしいよ。どうする?」
「いや、どうするって。……なんでどうするとか聞くかな」
「だって高校の頃一時期君ら付き合ってたじゃないか。進学でうやむやになったけど、どうなんだい実のところ」
あまり思い出したくもない過去の黒歴史をニヤニヤと語る。こういうとき幼馴染は厄介だ。
「い、今は別にあんな奴、全然なんとも思ってないしっ!」
強めに言ってプイとそっぽを向いた。決して大声ではない異のクスクス笑いがちょっとむかついた。
ひとしきり笑われて、落ち着いて、また他愛のない話をして、明日は家の手伝いがあるので早めに「良いお年を」なんて挨拶して別れ際。異は私に大きな封筒を差し出した。
「帰りに郵便局の前通るだろう。ついでにその封筒を出して来てほしいな」
「なんだそれ。パシリかよー」
ぶつくさ言いながら、私は宛先もよく見ずにその封筒を受け取った。ちゃんと見ておけば、もしかしたら何かが変わったかもしれない。今更の話だ。
「いいじゃないか、他に頼まれてくれそうな人はいないし。君が友達でよかったよ」
ニコリと笑った異の顔を、私は今も覚えている。その時会話の流れとはいえ「私もだよ」と言えなかったことを後悔するくらい鮮明に覚えている。
「はいはい」
私は軽い調子でそう言って、車を停めている表の神社側まで歩いていった。異は珍しく玄関先で見送らず、杖を突きながら玄関先までついてきた。
「じゃあ」
そう言って澄ました顔で手を振る姿が、私が見た八尾異の最後の姿だった。
後から思い返してみれば。
異はあの日ああなることを、随分前から知っていたのかもしれない。
漫画賞に応募しようとしたのも、珍しく普段観ないようなジャンルの映画を「思い出づくり」に観ようとしたのも、年末のあの日私に会ったことすらも。
きっと、だからあの日彼女は、私にこう言ったんだ。
「
最後くらい、夢を見てみようかと思うんだ」
彼女が亡くなって、年が明けて、しばらくして。
私の家にはあの大きな封筒で、彼女からの遺書が届いた。
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will…意思、遺言、遺書
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2018.12.20 詳細
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