時々、電柱の上にバサバサと飛んでくる鴉を見てびくりとするけど、でも大丈夫。これくらい普通。
神棚の神様ありがとう。あたしは産まれて初めて心の底から神様に感謝した。
教室に入ると、二十人足らずのクラスメイトはもう半分以上席に着いていて、昨日のアニメの話だとか、最近出たゲームの話だとかで盛り上がってる。マセた女の子はアイドルとかファッションの話に花を咲かせてるけど、あたしはまだどっちかってと漫画やゲームの方が気になるな。
そもそも、お洒落だってぜんぜんだし、髪の毛も結えるほど長くないし、クラスのかわいい子見てても自分がああいう風になるってイメージ湧かないんだよね。少なくとも今の所は。
……なのに、なんで。
なんであの神社のおっかない神様は、あたしのことなんかお嫁に取ろうとするかな。
親しい子たちにおはよって挨拶して着席。そうしてから「はーあ……」っと大きな溜め息を吐く。
頭の中をぐるぐる回るのは、昨日の不思議体験。神社でのこと、鴉のこと、そして出会った不思議な子・ガッキのこと。
あたしを助けてくれたあの子は、一体何者なんだろう。
綺麗な翡翠の瞳、優しい言葉。もしガッキがいなかったら、私は今こうして学校にいることはなかったろうし、二度と家に戻ることも出来なかっただろう。
想像してゾッとすると同時に、ガッキへの感謝の気持ちが自然と浮かび上がってきた。
……そうだ、あの子にも何かお礼がしたいな。何がいいかな。
*****
六時間目の授業が終わり、あたしもみんなもいそいそと帰り支度をはじめた。
授業中も休み時間も、どこかで何か起こるんじゃないかと思えて、心の中はあまり穏やかじゃなかったけれど、何とか無事学校での一日を終えることができたみたいだ。あたしはほっと一息吐く。
先生が配布物を配り始め、前から後ろへと何枚かの紙が渡る。
学校から親へのお知らせのプリント、町の広報紙、どこか街の方でやってるイベントの告知などを、適当にクリアファイルに突っ込みながら、帰る前の先生からのお話を適当に聞き流していると。
「ところで、これは今日のお昼頃あったばかりの話だけれど、蛇沼にある神社に泥棒が入って、ゴシンタイが盗まれたそうだ。みんなの家でも戸締まりに気をつけるよう、家族の人にもちゃんと伝えるんだぞ」
――……え?
いま、なんて。いまなんていった?
蛇沼の、神社。それって、それって……もしかして、もしかしなくても……あたしが秘密基地にしてた、昨日神様に襲われた神社だよね?
え? わけわかんない。えっ?
ゴシンタイって、御神体だよね? 神様が宿ってるっていう、あの御神体。
盗まれてた? なんで? 何のために?
あたしは秘密基地にしてたときに見たことあるけど、なんか妙ちきりんな銅の板だったよ?
骨董品っぽいっていったら雰囲気あるけど、わざわざ田舎のボロ社から盗むよりもっと綺麗なお宝が別のところにあるんじゃないの?
なんで、なんでよりにもよって、なんであの神社なのさっ……!
……すごく、やな予感がする。
「……ねえ、ねえってば」
隣の席のチカって子が、心配そうにのぞき込んできた。気付けばみんな帰りの挨拶のため起立していて、座ってるのはあたしだけだ。
「顔真っ青だよ、だいじょおぶ?」
「え……ぁ……」
まともな返事が返せない。それどころか体全体に力が入らず、立つこともできなかった。
「大丈夫か戮飢、少し休んで行くか? すまん、だれか、保健係。戮飢を保健室に連れて行ってあげてくれ」
先生の声で、すぐに保健係の深世さんが駆けつける。
深世さんとチカと二人がかりであたしを立たせると、両サイドでしっかりと支え、三人でゆっくりと人保健室に向かって歩き始めた。
「どったん遊嬉ちゃん、夏風邪?」
廊下に出ると、チカが聞いてくる。あたしはふるふると首を横に振ると、「少し目眩がしただけ。すぐなおる」と、やっと出せるようになった言葉で嘘をついた。……どうせ本当のこと言ったって、信じてもらえないだろうし。
「そっかァ、んでもいちおー熱測って、あったらおうちの人に迎えにきてもらったらいがっぺ」
チカはほんの少し安心した表情で言う。深世さんは「あーたは先生か……」と呆れ顔だった。
だけど、「あんま夜遅くまでゲームやってるからそうなるンだよ。小学生は早く寝ろ、成長止まるぞ」なんて言ってる深世さんも大概だと思う。
そうしてやっとたどり着いた保健室、二人は保健室の先生にあたしを丸投げして、お大事にねなんて言いながらそそくさと退散していった。現金なやつらだ。
保健の先生が渡してくれた体温計がピピピと音をたてる頃。どの学年でも帰りの会が終わったのか、窓の外には校庭で遊んでいる同級生や上級生の姿が見える。
いいなあと思いながら見た小さな液晶には「38.6℃」の文字。どうやら気持ち悪いのは気分の問題だけではないらしい。
先生にも見せると、「お家に電話して迎えにきてもらいましょ」ということになって、迎えが来るまでベッドで寝ていることになった。
今日日詐欺なんかがあるからか、職員室の電話からかけに行った先生を見て、あたしは学校に自分の携帯持ち込めたら連絡すぐなのになぁと思っていた。なんだかなあ。
大した用事でもないのになかなか戻ってこない先生を待ちつつ、熱でぼんやりする頭で何を考えるでもなく天井を眺めていると、ドアがガタンと鳴った。
先生が戻ってきたのかな?
緩慢な動作で首を動かすも、ドアの所には誰もいない。それどころか、開いた形跡すらない。
――えっ?
頭の中の霧が吹き飛んだような気がした。高熱から来る眠気が一時失せ、両の目をカッと見開いた、その時。
『みイつケタ』
――声。
男のような、女のような、子供のような、お年寄りのような。あるいは、そのどれでもないような、何かの声が、自分の真上から降り注ぐ、降り注ぐ。
いる、そこに、いる。
だけどだめ、見てはいけない。本能的にそう思った。
わかっている、わかっているけど、あたしの目は、体は。まるで操られているかのように、じわじわとそれの方向を向いていく。
嫌だ、厭だ! 見たくない!
だけど体はもう自分の言うことなんて全く聞いてくれない。瞼を閉じることも手で目を覆うことも出来ない……!
たすけて、たすけて!
大声で叫びたかった。先生でも校庭に残っている子たちでも、誰でもいいから助けを呼びたかった。だけど声は出なかった。口が動かないのだ。
もう駄目だ。もうそれを見てしまう……!
「申し訳ないけどその辺にしてもらえないかい? 見苦しいったらありゃしない」
また、声。
同時にヒュン、と。何かが勢い良く風を切る音がした、直後。
『あ゛あぁ゛ああぁア゛あ゛あァあああアああァああ゛アア゛ァぁ゛アあッ!!!!』
物凄い叫び声とともに、私の体に自由が戻る。今更ながら瞼が降り、頭上の絶叫に耳を塞ぐと、叫びはやがて黒板を引っ掻いたように不快な声に変わった。
『おのれ、おのれアヤカシ如きが何をするか! 何故邪魔立てする!』
凄まじい怒気を帯びた言葉。それを向けられているだろうもう一つの気配は、しかし平然としていて怖じる様子はない。
「……はあ、なんとまあ執念深いことか。拒み逃げた少女を自ら捕まえにくるなんて、これだからこの国の神の類は」
その声を聞いていて、あれっ、となった。
あまりに急なことで気づかなかったが、そうだ、これはガッキの声だ。
「ガッキ? ガッキなの!?」
呼びかける。目を再び開こうとする。
「駄目だ遊嬉ちゃん、目を開けちゃあ駄目だ!
みてしまう!」
思わぬ強い制止にあって、私は開きかけの目をぎゅっと閉じた。
真っ暗な視界の中、すぐ近くから電波の悪い雑音のような声が響く。
『娘子よ、ならぬならぬ、ダマされてはならぬ。あやつは、あれはアヤカシぞ。ヒトを食らうぞ、肉を食らうぞ。お主のことも食らうぞ。あなおそろしや、おそろしや』
ゼイゼイと苦しそうな喘ぎが混じるも、どこか勝ち誇ったように声は謳う。
『娘子娘子、我の妻になれば退屈はさせぬ、哀しませぬ。我とともにこの地にずっと居ろう。もし欲しい物あらば与えるぞ、何一つ不自由させぬぞ。心配ない。病苦もなく、老いもせず、ずっとずっと居ろう。主の一族にも恩恵をやろう。ここをより良き場所にしよう』
猫なで声でそれは言う。
「遊嬉ちゃん駄目だ、聞いてはいけないッ!」
『口出しするなアヤカシ風情! この地に生まれし娘なれば、我が妻となるのが最大の誉というもの! 去ね! 薄汚いアヤカシよ去ね!』
それが威嚇する蛇のようにシャァッと鳴くと、空気がびりびりと震え、窓や扉はガタガタと、棚の上に置いてある消毒液の瓶はゴトゴトと音を立てている。
大きな地震でも来たかのような音に、あたしはただただ怯えるばかり。
『渡さぬぞ、返さぬぞ! この娘は我のものぞ!』
それが尚も吼えると同時、あたしの体になにかひやりとしたものが触れる。冷たくて、つるりとしていてなんだか気持ち悪い。
そんな気持ち悪いものは、目をぎゅっと閉じているあたしにぐるぐると巻き付いていく。蛇のように、蛇のように……!
そうだ、そうだった。
あたしは何故か忘れていた、昨日見たモノの姿を思い出した。
あれは、あの神社の神様は蛇だったんだ。真っ暗な空間の中、蜷局を巻いてあたしを見下ろす黒色の大蛇……!
「やぁ…だ、たすけ……ッ!」
蛇があたしを絡め取っていき、体は持ち上げられるように宙に浮かぶ。あたしは辛うじて自由な右腕を必死で伸ばす。恐らくはガッキが居ると思われる方に向かって、精一杯に手を伸ばす。その間にも蛇神の不快な笑い声はゲラゲラと響いている。
下品な音響の中、小さな溜め息が一つ。
「――はあ。蛇神よ、……否。もとはこの地に棲む大蛇か。娘子を取っては食らい退治され、荒ぶる御霊を鎮めんと祭り上げられてなおも娘を攫い喰らうつもりか。
私をアヤカシと貶すが、貴様のような荒神よりは遥かにマシというもの」
『黙れい! 我の勝ちじゃ、我の勝ちじゃ、貰って行くぞ、貰って行くぞ!』
「お前は『魔王』か」
呆れたような溜め息が再び。そして、ガッキは。
「離さないなら仕方ない、
交渉さないなら仕方ない。神の類と見て譲歩したものの、どうにも我慢ならねぇな」
静かだけど、呆れと怒りの混じったような冷徹な声。続いてスゥーーッと何かと何かが擦れるような音と、シャリンという金属音。
「遊嬉ちゃん! 決して目を開けないで。必ず助けるから、おれがいいと言うまで決して開けるなよ!」
ガッキの言葉に、あたしはここから助かりたい一新でコクコクと頷いた。
『愚かな、愚かな。神に刃向かうか』
蛇が一層強く締め付け、その苦しさにあたしは呻く。
「ぬかせ神気取り! 貴様などは滅びた化け物の残骸で、出雲にも招かれぬ田舎者よ! 貴様などは神ではない、貴様などは……神ではないッ!」
一瞬のことだった。
水を打ったような静寂があった。
その、数秒の後。
締め付けられる圧迫感が失せ、あたしはベッドの上に落下する。
げほげほと咽せ、自由になった肺に空気を取り入れる。
まだ目を開けていいとは言われていない。けれど、あたしはうっかり目を開けてしまった。
やっと戻った視界の中、あたしが見たのは。
「失せろ」
冷徹に言うガッキと、どこから出てきたのだろう、カタナ――日本刀を突き立てられてボロボロと消えていく大きな蛇の頭だった。
ガッキはこちらをチラリと見る。その顔の半分には血のような液体がべとりと付いている。あたしは少し驚いて声を漏らす。ガッキは少し困ったように笑うと、言った。
「見てはいけないと言ったろう?」
少し寂しそうな声だった。そしてそっと何かを隠した。
でも、あたしはもう気づいてしまっていた。
ガッキの左腕が、人間のものではない形をしていたことに。
俯くガッキの顔は長い前髪で隠れてしまっている。ふと見ると、ガッキの腕は普通の、人間と同じ腕に戻っていた。
「……ごめん。騙すつもりはなかったんだ――」
右手で左腕をぎゅうと掴んで、ガッキは言った。
「――びっくりさせてしまったね」
再び上げられたらガッキの顔、その瞳は潤んでいて、今にも泣き出しそうだった。
あたしは、ふるふると首を横に振る。それを見たガッキは意外そうに目を見開く。
「怖く、ないのかい?」
「助けて……くれた……助けてくれたでしょ。怖くないよ怖くないよ」
もらい泣きって言うのかな、何故かあたしの目にも涙がうかんできた。色々ありすぎたからなのか、今更になって色んな感情がドッとこみ上げてきて止まらない。
目に溜まった涙はやがて大粒の雫になって、ぽろぽろと頬を流れ落ちていった。
「助け……呼べないっておもったとき……こわかったぁ、……こわかったよぉ……っ!」
しゃくりあげて上手く言えない。でもここで何か言っておかないとガッキが居なくなってしまうような気がして、あたしは兎に角言い続けた。この気持ちを伝えたいと思った。
「でもっ……でもぉッ! がっき、来てくれてっ、そのとき……一番、一番ね、嬉しかった」
泣きじゃくりながら、でも本当のことを伝える。嬉しかった、本当に嬉しかった。
「あたし、ガッキがぁ! お化けだってなんだって、きにしないから……ッ! ……ありがとぉ、……ありがとうガッキ」
涙でぐしゃぐしゃの顔で精一杯、笑顔を作ってみせる。
いつの間にか、ガッキはすぐそばにいて、涙を掬うようにあたしの頬をそっと撫でた。
「……馬鹿だなあ、こんな『お化け』に感謝したって、何もいいことないぜ?」
呆れたように言うガッキに、だけどあたしは言ってやるのだ。
「『友達』は、いっぱいいたほうがいいって、先生言ってた」
*****
ふと気がつくと、ベッドの隣にお爺ちゃんと保健の先生が立っていた。
保険室は何でもない様子で、壊れているものもないし、蛇の血も死体もどこにもなかった。
そして何より、ガッキがいない。
心配したとか大丈夫とか言うお爺ちゃんと先生の言葉も碌に聞かず、あたしの目はキョロキョロと保健室を見渡すけれど、やはりガッキはいなかった。
「先生、あたしの他に誰かいなかった?」
聞くと先生は不思議そうな顔をして、「遊嬉ちゃんの他には誰も居なかったよ」と言うのだ。
「先生すぐに戻ってきたんだから、誰かいたら気づくよ。それに、遊嬉ちゃんぐっすり寝てたじゃない。夢でも見たんだね」
などと言って笑う先生。
……あれ? もしかして、夢?
あんなにリアルだったのに、あんなに怖かったのも、あんなに嬉しかったのも、全部全部ーー夢?
ベッドから起き上がって呆然とするあたしの手を牽き、お爺ちゃんは言う。
「
帰っぞ」
釈然としないまま帰宅。
全部が夢、昨日からのこと全部が夢だったとしたなら、大勢の鴉も赤い瞳も全て夢……ガッキも夢。
あまり信じたくなかった。自分の部屋の中でずっと呆然としていた。
ふと思い出して携帯の着信履歴を見ると、昨夜の電話は無かったことになっていた。
――やっぱり、あたしの夢だったんだ。
いや、一度は確かに夢であれと願った筈なのに。なのにどうして、涙が零れた。
食欲のないまま夕飯の席、学校で熱を出したからということで出てきたお粥はあんまりおいしくない。
ぽそぽそと食べていると、お爺ちゃんがふと妙なことを言った。
「そういやな、蛇沼ン所の神社の御神体、けえってきたんだと」
「あんらまあ、泥棒捕まったんです?」
お母さんが反応すると、お爺ちゃんは首を横に振る。
「泥棒は捕まってねぇげんどよ、粉々におっ壊れた様で社の中に戻してあったんだど」
「やだわ、罰当たりなことするもんもいるんですねえ」
二人の会話にハッとする。
盗まれた御神体、壊れた御神体。
ガッキが倒した蛇。
やっぱりあれは、やっぱりあれは――!
「夢じゃ、ない?」
驚きを押さえきれず漏らした言葉は、家族の誰にも聞こえていなかったようだった。
(『黒蛇の呪い』編、完。『雪の垣根』編に続く)
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