断片章『雌伏』
闇夜の空を覆い尽くす黒雲は豪雨を伴い、雲間を不気味に輝かせて溢れ出した稲妻は破裂音を伴って大地を刺す。
雷雨に
甚振られる下界の山々は怯えるように木々を揺らし、その木々の枝葉の下には、この山々を治める山神の領分がある。
麓や山間の村々に暮らすような人間たちが立ち入るためには少々特殊な手順が必要となるその場所には竹藪が広がり、寿命を超えて妖怪
変化の類となり山神の眷属となった獣たちと、その獣たちが世話する美しい娘たちが、『屋敷』を与えられて暮らしていた。 山奥で狐狸の類に世話されて高貴な姫君の如く振舞う娘たちもまた人間ではなく、土地に千年万年の恵みを齎す怪異である。 彼女らは獣らと同じく寿命を超えて怪異となった竹から生まれ、他の怪異や、知らず知らずの内に手順を踏んで迷い込んだ人間から生気を吸い上げ、親竹に還す性質を持つ。
そのため「化け竹」とその娘らはそれの生じる山神・土地神の類に囲われ、後生大事に飼われていた。
これは、そんな化け竹の数ある群生地の一つが雷雨に晒されていた、元禄十四年の夏のことである。
嵐の中誰も訪れることのない屋敷は蔀戸をぴったりと閉じ、ひっそりと風雨に耐えている。立派な屋敷は強風にいくらか軋み遠く落雷の衝撃に揺れはするものの、よほどのことのない限り崩れることはないだろう。
だが――屋敷の裏手にひっそりと建つあばら家はその限りでなかった。
一見して物置のように見えるそのあばら家の中には、化け竹の子供が二人ばかり暮らしている。煌びやかな衣を纏う姉妹たちのなかでたった二人、着古した襤褸の服を纏った子供が二人と、その世話と見張りを任されている狐と狸の怪異が。
嵐の中、ところどころ壁板が剥がれて穴だらけの壁になけなしの目張りをし、吹き込む風雨に凍えながら、身を寄せ合ってそこにいた。
露骨に仲間外れとされている化け竹の子は、種族のなかで不吉とされる白竹色の髪の、「おとこ姫」であった。
化け竹の子は皆人間に似た美しい娘の姿をしていたが、内臓の構造にわずかな違いを持つ「雄の個体」が存在し、同種の雌の個体にはそれが感知できると云う。そうして発見された「雄」はおとこ姫と呼ばれ、いつの頃からか白竹色の髪と同様に、同族の中で忌み嫌われていた。 いつの頃か――いや、恐らくは山神に飼われるようになった頃からであろう。 この夜、あばら家で弟・慈乃を庇う様に抱きしめ雨を耐える兄・嘉乃はこう考える。
――雄は雌に比べ生気を吸い上げる量が少ない。吸い上げて残留した恵みの力を引き継ぐ子を山神の土地に遺さない。白竹色の髪はおとこ姫同様生まれる数が少なく、奇異に映る。格差は、ただただそれだけのことで生まれたのだと。
(……ひと思いに殺してしまえばいいものを。生かしておけば姉たち皆に嫌がられた者から欠片ばかりでも絞れるなどと考えて、それだけのために生かしている)
とうに風にかき消された火に代わり、雷光が轟音と共に闇を照らす。嘉乃は震える弟の背を摩り、離れて座る狐狸の従者に目を遣った。
山の神の所有物に対して間違いを起こさないように――たとえはずれと見做されて捨てられたような存在であっても、だ――十分に距離を置いて控える従者たちは、やかましい嵐の音に包まれながらも神経を尖らせ、万が一に備えている。
静かに、けれども確かに張り詰めている彼らの姿を確かめ、嘉乃は言った。
「休んだらいいだろう」
二匹の狐と狸は急な言葉に耳をピクリと揺らし、けれども警戒の表情を緩めぬままに嘉乃に言った。
「そうはいきませぬ」と、まず狸が。「嵐に乗じ何者かが襲ってくるやもしれぬ以上、休むわけには」そう続ける。
狐の者も言う。「我々は主である山神に逆らうことはできませぬが、それでも嘉乃様たちのことを任されております」と。
嘉乃はそれらを聞いて小さく嘆息する。まったく哀れな連中だ、と。
(その山神の命さえなければ、おまえたちはこんなあばら家で雨に打たれずともよいのに。こんなみすぼらしい兄弟のお守りなどせずともよいのに)
嘉乃が憐れみ呆れると同時、雨脚が更に強まり、壁の穴を頼りなく覆っていた筵が外れて飛ばされ、反対側の壁に激突して落ちる。
ただでさえ吹き曝し同然だったあばら家の中にはより一層の風雨が吹き込み、嘉乃の腕に抱かれる慈乃は怯える声で「兄さま」と呟き、今にも破けそうな兄の着物にしがみ付いた。
狐の者が立ち上がって筵を拾い上げるが、長く風を受け止めた藁の間には大小の木の枝が突き刺さっており、織目は綻び、塞ぎ直したところで長くは持たない様子である。
呆然とする狐の者と狸の者を嘲笑うように、強風は親竹の林をざわざわと揺らし、竹林と木々の間には嵐のものだけではない奇妙な気配が飛び交っている。
「……今宵は嵐に乗じて雷獣や天狗どもが力比べをしている様子。やはり今一度母屋に趣き、一晩だけでも入れてもらえぬかどうか、今一度頼んで参りましょう」
狸の者がそう言ってあばら家を出て行こうとするのを、嘉乃は「待て」と呼び止めた。「待て篠」と。嘉乃が口にするのは狸の名である。
「止せ。無駄に雨に打たれることはない。母屋の連中にそんな情けがあるなら、はじめから追い返さなかったはずだ。……もう三度断られた。山の神だってそれで承知しているから何も言わないのだから」
「ですが嘉乃様、これ以上はいくらなんでも限界です。いくら主が納得していようと、これ以上は……っ」
「よいから。篠、莞」莞は狐の名である。
嘉乃は狸の者と狐の者を順に見て、それから腕の中の弟を見、ぽつりと漏らした。――「それでも」と。
「それでも、慈乃だけでも入れてもらえる様子なら、何度でも頼みに行ったのだけどね」
言って、嘉乃はほとんど濡れてしまった弟の髪を撫でた。
慈乃はそんな兄を申し訳なさそうに見つめ返し、相変わらずの風雨と雷鳴に怯えながらこう言った。
「よいですから。……兄さまと一緒に耐えますから。篠と莞が我らのそばを離れられないと言うのなら、どうか少しでも雨風の当たらぬ場所にいてください」
狐と狸は顔をしばし顔を見合わせた後、とぼとぼと持ち場に戻っていった。
「雨除けにもなれず申し訳ありません」
狐の者が悔しそうに床に爪を立てる。彼らが仕えるのはあくまで山神、必要最低限を除き山神の所有物である化け竹の姫に接近・接触することは許されていない。
このような、状況であっても。彼らの意思がどうあれ、山神の領域であるこの山で主命に逆らうことは死を意味する。
狐の者も狸の者も、それが悔しくてたまらなかった。
いくらそれが山神の掟であれ、化け竹の姫たちの掟であれ、ただ「予備」として飼われている二人の「おとこ姫」のことを、彼らはただただ不憫に思った。叶うのならば山から連れ出して、山の掟とは違うどこかに逃がしてやりたいと願っていた。
だがそれは山神の眷属である自分たちに許されていることではない。なにか山神との契約を破棄するか、欺くか……その方法があればいいのだが、それを思いつけるほどの賢さのない己の頭を、彼らは恨んだ。
今はまだ、彼らに嘉乃と慈乃を救う力はない。
……今は、まだ。
嵐に混ざって遊ぶ雷や風を司る怪異の気配に再び注意を向けつつ、狸の者が言う。
「明日になったら。……嵐が明け、日が昇ったら。なにか温かいものをお持ちします」
「頼む」
言って頷く嘉乃はその身に枝を抜いた筵を蓑のように纏い、少しでも自身を、なにより弟を雨風から守ろうとしていた。
より一層憐れみを誘う姿となって、嘉乃は言う。
「篠、莞。……これは独り言のようなものだから、なにも言わずただ聞いてほしいのだけれど」と。
「昼、母屋の使いが噂しているのを聞いた。……ここではないどこか東の山で、「おとこ姫」が一人麓に下って、人間たちと共に暴れているらしい。……他所の山神の管轄であろうから、契約の縛りが弱いところもあるのかもわからないが、……もし山神の契約を解く方法があるのなら、そのときは」
直後、一際大きな雷鳴が轟く。そう遠くない場所に落ちたのか、雷鳴からほぼ時間を挟まずに樹木が裂ける音が場を支配し、大地は地震の如く振動する。
その轟音に、鳴動に、わざと被せるように、嘉乃は言った。
「連れ出してくれるか。わたしと弟を」
二匹の従者の獣の耳は落雷の炸裂音に痛めつけられながらも、確かにその「声」を捉えていた。
彼らは――嘉乃の切なる頼みに胸打たれ、雷光に照らし出されたその表情に、その真剣さに、その美しさに魅せられながら。
ただただ黙って、首を垂れた。
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2024.8.18[0回]