1、断片章『苦悩』 烏貝乙瓜
「逃げたら私が許さない」
眞虚ちゃんの気迫に、私はすっかり降伏した。
ただでさえ蜜姉を亡くしたばかりの私に、今まさに死に瀕しているという魔鬼に会わないという選択肢があるわけがなかった。
私の逃亡はそこで終わった。
けれどこれでよかったんだ。
未練ばかり抱えたままで、後悔ばかり抱えたままで。知らないうちに「二度と魔鬼に会えない」だなんて、そんなのはまっぴらだった。
今度こそ行かなくては。今度こそ会わなくては。今すぐ、黒梅魔鬼に。
荷物は既にまとめてあったから、出発はすぐにできた。
徐々に古霊町に近付いていく電車の中で、けれども私も眞虚ちゃんも必要最低限の会話しか交わさなかった。
「お金チャージ足りる?」とか、「次の駅で乗り換え」とか。そんな会話。とても、かつての親友とは思えない内容だった。
車内の混雑具合が落ち着いたとき、ふと眞虚ちゃんの顔を覗きみた。
彼女は、姿こそは中学の頃とほとんど変わらない幼さを残していたけれど、顔つきだけはすっかり大人めいてキリリとしていて。まるで眞虚ちゃんの姿をした別人が座っているみたいで、私はそれが怖かった。
それは眞虚ちゃんがおそらく怒っているから……ではない。
すっかり年相応にしっかりとしている友人に並んでしまうと、嘘つきで、弱虫で、所詮からっぽのままの自分の存在が際立つようで。
私はそれが……本当に怖かった。
……ああ、こんな自分を見て、一体魔鬼はなんと言うんだろう。
電車は確実に古霊町へと近づいていく。一駅一駅、馴染みのある土地が近づく度に。見えない鉛の塊が降ってきているみたいに、私の心は重く沈んだ。
だけど、もう、引き返すには近づきすぎた。
駅から、眞虚ちゃんの車に乗せられて十分ほど。冬の薄暮の空の下に、うっすらと病院の影が見えてきた。
眞虚ちゃんは慣れた様子で受付に向かい面会の旨を告げると、「いこ」と私を促して、エレベーターのボタンを押した。
そしてたどり着いた三階隅の病室には、確かに『黒梅魔鬼』の名の書かれたプレートが挟まっていた。
何度見ても、間違いなくそう。そして大部屋ではなく個室。入ってしまえばもう間違えようもなく魔鬼に会う。会ってしまう。
息をのんだ。
そうだ。遂にここで会ってしまうのだ。三年ぶりに。
ふと眞虚ちゃんを見ると、彼女は病室に入るそぶりも見せず、じっとこちらを見つめていた。
その瞳は言外に、「絶対に逃げるな」と訴えている。
ああ、彼女は本当に「逃げたら許さない」つもりなのだろう。思いつく制裁の限りを尽くすつもりなのだろう。
私は観念して、覚悟を決めた。
――大丈夫、逃げない。
そう念じながら眞虚ちゃんに頷いて、私は一人、魔鬼の病室の扉を開いた。
大部屋ほどゴテゴテと遮るもののない個室内は、病院の中にしてはやけに薄暗かった。
外はすっかり夜になろうとしているのに、室内灯は未だに落とされたままで。床頭台のライトスタンドだけが、ベッド周りだけを仄かに照らしていた。
「魔鬼……、」
私が恐る恐る呼び掛けると、ベッドの上の彼女はゆっくりとこちらに顔を向けた。
すっかりやつれてしまった顔を、LEDの青白い灯りが誇張する。一瞬別人じゃないかとも思ったけれど、……彼女は確かに黒梅魔鬼だった。
魔鬼は虚ろな目で私を見て、突然カッと両目を見開いた。
それは豹変と言っても過言ではなかった。まるで見えないスイッチを切り替えたかのように、魔鬼の目から死を見つめる暗い光が消えた。
けれど代わりに灯ったこの光は、一体なんだというのか。
驚喜? 呆然? 感激? 困惑? ……憎悪?
なんだかよくわからないものを目に宿し、魔鬼は未だ扉の近くに突っ立っている私に向けて、ふらふらと手を伸ばしてきた。
「……魔鬼? わかるか?
私だ、烏貝乙瓜だ」
私は彼女に歩み寄った。まだなにも言葉を返してくれない彼女に、ちゃんと自分の言葉が聞こえるように。自分の言葉で謝れるように。伸ばされている手を取るために。
けれども。
いざベッドサイドまで来て、魔鬼をのぞき込むように身を屈めたとき。魔鬼の手が向かった先は私の手ではなく、私の首だった。
彼女はおよそ病人とは思えない速さで起き上がり、二本の腕で私の首を捕まえた。その動きはまるで草食獣を待ち伏せ襲いかかる肉食獣のようで、逃れる隙なんてなかった。
不健康に痩せた腕のどこにそんな力が残っているというのか。彼女は恐ろしい力で私の首をギリギリと締め上げ、そして言った。
「どうして……ッ!」
どうして。疑問の言葉。それを地獄の底から漏れ出したような声で紡ぎながら、魔鬼が私にぶつけたのは殺意だった。
「どうして居なくなったッ! ……どうして私のそばから逃げたッ!! よくも二度も裏切ってくれたなッ!?」
見開ききった両目に私を捉え、彼女は叫んだ。消えかけの蝋燭が最後に見せる眩い炎のように、力強く叫んだ。
「なんで今更のこのこと帰ってきた!! なんで今になってお前はッ……――」
けれども喉を塞がれた私はそれに答えることも謝ることもできず、ただ彼女の罵倒を浴びることしかできなかった。
鬼伐山彗にそうされたように。
けれども今回は他人事ではなく、確かな自分事として。
魔鬼の吐く呪詛めいた言葉は確かに私の非で、私の過ちで、私の弱さが招いたことで。直接身体を傷つけられて痛めつけられるよりも、よほど私の心をボロボロにした。
大学受かったらああしよう、こうしようと。高校時代に約束したことは全部反故にしてしまった。
そもそも中学の終わりに約束したことですら、私はちっとも守れなかった。
全部私のせいだ。
魔鬼がこうなったことすらも。
ならいっそ、このまま魔鬼の手にかかって死にたかった。
……けれども、形以外人間の真似事をすっかりやめてしまったこの体は、どれだけ酸素の供給を絶たれようとも、ちっとも死ぬ気配が見えなかった。
あんまりなことだった。残酷なことだった。
だって、魔鬼はこれから死んでしまうかもしれないのに。ただ逃げただけの私だけはずっと生きているしかないだなんて、あんまりな仕打ちじゃないか……!
気付いたら涙で視界が滲んでいた。
そのせいなのか、それとも私がなかなか死ななかったからなのか。魔鬼はふと我に戻ったような顔になって、びっくりしたみたいに私の首から手を離した。
私はそのままベッドサイドに膝をつき、ゲホゲホと激しく咳き込んだ。
頭上の魔鬼は困惑したように何事か呟いた後、喉からヒュウヒュウと苦しげな音を出しはじめた。
多分、過呼吸を起こしたのだ。
落ち着けないと。まだ自分の息もおかしなままだというのに、私はよろよろと身を起こした。近くにあった面会者用のパイプ椅子になんとか座り、魔鬼の背中に手を伸ばし、なだめるようにゆっくりとさする。
多分、それはおかしなことだった。ついさっきまで自分を殺そうとした相手を案じるなんて、自分でもどうかと思った。
……いや。そもそも「殺されてもいい」だなんて思う時点でどうかしているのだ。だからこれはむしろ、どうかしているなりに普通のことなのだろう。
しばらくの間、個室には互いの荒い呼吸音だけがひびいていた。
ある程度互いに落ち着く気配が見えたのは、何分くらい経ってからだろう? もしかしたら大して時間は経っていなかったのかもしれない。
そのときになってやっとナースコールの存在に思い至り、魔鬼に「押すか?」と訪ねた。
けれども彼女は首を横に振り。それから小さな声で、「ごめんね」と呟いた。
私が先に言わなければならなかった言葉を。
「謝るならこっちの方が先だよ。……何も言わずに長い間いなくなっててごめんな」
私は自分の想像よりも簡潔にそのことを伝えて、直後もっと言いようがあったのになと俯いた。なにしろ殺されかかった後なのだ、もう少し誠実な言い方はなかったのか、と。
けれども魔鬼はびっくりしたような声で、怖いものにでも会ったような声で、「殺されかけたのに、それでいいの?」なんて言う。
だから私は、……だから私は「それでもよかったんだよ」と言って。ただ、彼女を抱きしめる他なかった。
腕の中の魔鬼は、昔よりずっと小さく感じられた。
昔はむしろ、彼女の方が大きく感じられたくらいなのに。
今はこんなに小さくて、……脆い。
どうにかして助けられないかと、私は願った。魔鬼は私の"大好きな人"で、それ以前に私の恩人でもある。
一緒に死ねないならば、せめて命を延ばしてやりたかった。
延ばして、延ばして、せめて人並みに幸せになって、お婆ちゃんになって幸福に人生を終えるまでは生かしてやりたかった。
どんな手段を使ってもいい。今度こそ完全に
人間の形を失ってもいい。
だから。――だから、どうか。
強く祈り願ったとき。私は一つの噂を耳にした。
千年に一度現れるという≪妖鳥≫の噂。その血と羽を手に入れれば、一つだけ願いが叶うという。
その不確かな噂にすがり。私は≪妖鳥≫が出現するという街へと向かった。
理を曲げて願いをかなえるということがどういうことか、それを知っていながら。
///
2、断絶章/苦悩 黒梅魔鬼
「もう一度、乙瓜に会いたい」
その心に嘘はなかった。どうせ死んでしまうなら、最後に乙瓜の顔を見てから死にたかった。
眞虚ちゃんはそんなわがままを真面目に受け止めてくれたようで、「どうにかしてみるね」と真剣に言って、そのまま病室を飛び出して行ってしまった。
彼女ならそう答えるだろうことはわかっていた。どれだけ忙しくても、そうしてしまうのが彼女だとわかっていた。わかっていたから、私は小鳥眞虚という人間を利用したのだ。
もし、その日見舞いに来たのが眞虚ちゃんじゃなかったら。私は同じことを言っただろうか?
「私は、なんて……」
そのことをじわじわと自覚して、激しい自己嫌悪に見舞われて。私は結局その日その後の食事のほぼ全部を吐き戻してしまった。
二月二十二日になっても、眞虚ちゃんは現れなかった。
近頃特に鳴る頻度の減ったスマートフォンも、床頭台で充電されながら暇そうにしている。
その日は乙瓜の誕生日だった。三年前、乙瓜が姿を消す直前。大してお金もなかった私は、「来年になったらバイト代でなんか買ってあげるよ」と、乙瓜への誕生プレゼントを見送ったのだった。
だから、もしかしたら一年後の誕生日に帰ってくるかもしれないと思って。「あいつのことだからつけてくれないかもなあ……」なんて思いながら買った誕生石のネックレスは、今はこの床頭台の引き出しに封印されている。
この間ふとその存在を思い出して、家族にとってきてもらったのだ。もちろん、どんなものかは伏せた上で。
眞虚ちゃんに乙瓜の誕生日のことを振ったのはそのためだった。この更に次の誕生日には、もう私は生きていないとわかったから。ならせめて生きている間にもう一度会って、自分の手でこのプレゼントを渡したかったのだ。
…………いや。それもまた言い訳だ。
どんな手段を使ってでも、どんな理由を使ってでも、私は乙瓜に会いたかった。もう一度乙瓜に触れたかった。
たとで私の知らないところで私の知らない人を好きになっていても。それでもいい、一瞬だけは私のところへ帰ってきて欲しかった。
思って、想って、……ふと。かつての草萼水祢のことを思い出した。
実の兄を家族以上に愛していた、多分これから先も報われそうにない少年。初めて会ったときは身勝手で理不尽でわけのわからない奴だと思ったけれど、今ならそれは違うとわかる。
結局は私も彼と同類だった。それに気づかないふりをしていただけだった。
……いや、いいや。それでも彼と私には天と地ほどの違いがあった。
彼はどんなに応えてもらえなくても、ずっと自分の気持ちを叫んでいた。私もそうすればよかったのだ。
烏貝乙瓜が好きだと、はっきり言えたらよかったのだ。
それから一週間近くが過ぎた。閏年といえど二月は既に明日の二十九日を残すのみとなり、間もなく三月になろうとしていた。
誕生日を超えて、乙瓜が居なくなったあの三月に。暦は再び回ろうとしていた。
眞虚ちゃんはあれから一度も姿を現さないまま。本当に乙瓜を探しに行たのかも判然としないし、もうすっかり別の用事に追われてそれどころではないのかもしれない。
……そうであっても、それでもいいと思った。所詮私のわがままなのだから。
「夕食まででいいんです。……電気点けないでもらって構わないですか」
もう日が落ちるという時間帯。様子を見に来た看護師さんにそう伝えて、私は床頭台のライトスタンドのスイッチを入れた。
……なんとなくだ。ただそうしたかっただけ。
薄明りだけが照らす病室の中で、私は闇に染まっていく街をぼんやりと見つめていた。
特に面白くもなかったけれど、そうしているとなんとなく落ち着く。……その闇がこれから自分という存在を食べにくるというのに。もしかしたらこれも呪いの一つなのかもしれなかった。
闇の中に慣らして、慣らして……そして最後にゴクリと飲み込むつもりなのだ。……流石にそれは疑いすぎか。
けれどもこれから半年、どんな気持ちで生きて行けばいいんだろう。
これから半年……なんで半年なんて猶予を私に与えたんだろう。どうせ結果が同じなら一思いに持っていけばいいものを。
――さっさと殺せよ。
なにかを考えるのもめんどくさかった。考えることが苦しかった。
このまま目を閉じれば、もしかしたら死ねるんじゃないかと思った。そうだったらいいのにと思った。
その瞬間に。
「魔鬼……、」
声がした。病室の扉から。聞いたことのある看護師さんの声じゃなかった。
看護師さんの声じゃなかったけれど、いや……、まさか。耳を疑った。
聞いたことのある声だった。
そんなはずない。そんなはずない。けれどそうであってほしい。
ゆっくりと、顔を向けた、その場所に。
ライトスタンドの薄明りに照らされて。誰か、人影が立っていた。
誰か、いいや、誰かじゃない。
そこに輝く、少し常人とは違う橙の輝きを見間違えるはずがない。
烏貝、乙瓜。
――また会えた。飛び上るくらい嬉しかった。
――夢じゃないかな。自分の見ているものを疑い呆然とした。
――本当に来てくれた、本当に……! 死にかけていた心が震えた。遂にあの誕生日プレゼントを、時期がずれてしまったけれど、やっと最後に渡すことができる。
――でもどうして、どうして今更。ずっと会えなかったのに。
――今更。……ふうん、その気になれば来ることが出来たんだ。ならもしかしたらもっと早く、私のところに来ることができた……?
そうなんだ。そうなんだ……。
そうなんだ。
私は乙瓜に手を伸ばした。いままでちっとも届きそうになかった手が、あと少しで届きそうで。もっとこちらに来て欲しかった。
それを見て乙瓜は何を思ったのだろう。何やら言いながら近付いてくる彼女の顔がはっきりと見える。
やっと私の近くに来てくれた。やっと私の手の届くところに来てくれた。
私は凄く嬉しかった。
本当に本当に嬉しかった。
だから彼女に手を伸ばして――
「どうして……ッ!」
どうして。自分でそう叫びながら、聞きたいのはこちらだった。
どうしてか、私の手は乙瓜の細い首を絞め殺そうとしていた。一瞬前まで、そんなつもりは全くなかったのに。引き出しにしまわれたままのプレゼントを、ネックレスをさげてやるべきその首を。私は自分でも信じられないような力で締め潰そうとしていた。
「どうして居なくなったッ! ……どうして私のそばから逃げたッ!! よくも二度も裏切ってくれたなッ!?」
私は叫ぶ。確かに心の片隅にあったことを、けれども今この場で伝えたかったこととは真逆のことを。
「なんで今更のこのこと帰ってきた!! なんで今になってお前はッ……――」
違う。帰ってきてほしかった。手の届く場所にいてほしかった。理由なんてどうでもよかった。
(それも違う。納得のいく理由がほしかった。そうでないつまらない理由なら死んでしまえと思った。死んで欲しくないけど、それも本当)
なにか答えてほしかったけれど、私が首を絞めているのだから答えられるはずもない。
このままでは殺してしまう。放さなければならない。そう思うけれど、手は思うとおりにならなくて。
……乙瓜は抵抗しなかった。見たことないくらい苦しそうな顔をしていたけれど、それでも、私の手を振り払おうとしなかった。
まるで、そう。すっかり忘れかけていた、ずっと昔の出来事の再現みたいに。
(なんでなんだよ……! なんで抵抗しないんだよ。なんで受け入れようとするんだよ……!)
抗わない乙瓜に腹が立って、止められない自分に腹が立って。余分な力が籠る手に、何かの液体がぽたぽたとかかる。
それは乙瓜の涙だった。
それを見て、びっくりして、やっと私の手は私の思う通りになった。
その瞬間、乙瓜はベッドサイドに崩れ落ちる。
「……ちがうっ、そんなつもりじゃなかった、そこまでする気なんて、殺す気なんて、」
ゴホゴホと苦し気に咳き込む声の主に、弁明するようにまとまらない言葉を呟いて。……息が上手く出来なくなった。
気が付いたら、乙瓜が私の背をさすっていた。
今さっき自分を殺そうとした相手なのに、ちょっとどうかしてるんじゃないかと思った。
わかってる。……一番どうかしてるのは私だ。私はもうすっかり、身体だけじゃない部分までどうにかしている。
きっと、
罰が当たったんだ。あの日乙瓜を呪ったから。恨めしく思ってしまったから。
ヘンゼリーゼの呪いのためじゃなくて、自分自身がかけた呪いのために。……私はもう、乙瓜を傷つける存在になってしまっていた。
だいぶ息が整ってきた頃、乙瓜がナースコールを持って「押すか?」と聞いてきた。
……ほらみろ、乙瓜はなんだかんだいって良いやつじゃないか。それなのに
お前は。自分の中の自分がそう囁く。
それなのに私は、最低だ。
ナースコールなんてしなくてもいい。このまま具合がおかしくなっても、それは自業自得というものだ。
私は首を横に振って、ただ「ごめんね」と乙瓜に謝った。殺そうとまでしたくせに、もっと誠実な言い方があっただろうに。
けれど乙瓜はそれを素直に受け取ってしまったのか、「謝るならこっちの方が先だよ」なんて言う。
「……何も言わずに長い間いなくなっててごめんな」
ああ、本当にそう思う。だけれど私の方がずっと悪いことをした私が「そうだよ」なんて言えるはずもない。
その上、こんな状況でも尚自分の方が悪いとでも言いたげな彼女は、少し怖かった。
だってそんなこと、……ずるい私にはとてもできない。
「殺されかけたのに、それでいいの?」
「それでもよかったんだよ」
乙瓜は当たり前のようにそう言って、私のことを抱きしめてくれた。
それは願ってもないことだった。何度でも夢に見たことだった。呪ってしまうほどに、そうしてほしかったことだった。
乙瓜は昔より少しだけ大きくなったような気がした。
昔はむしろ同じくらいだとおもっていたのに。私が不健康に痩せてしまったからなのか、それとも人間的にちっぽけだからなのか。
たぶん、どちらもなのだろう。
……結局その日私は、プレゼントを乙瓜に渡してやることができなかった。
あんなことをしてしまった後だ。平然と「遅れたけど、誕生日おめでとう」なんて言えるほど、私の神経は太くはなかった。
自分で壊そうとしたその首に、どうしてプレゼントを下げてくれなんて言えるだろう。
そして。遂に何日経ってもそれを渡す気になれないまま。
私は丁寧にラッピングされたままの箱を、そっとゴミ箱に捨てたのだ。
……勿体ないとも思った。誰かににあげてしまってもよかった。
けれども誰かにあげてしまったとして、それを身に着けている姿を見てしまったとして。「ありがとうね」なんて言われたとして。……きっと私は本来それを付けているはずだった人のことを想い、その首を絞めたことを想い、……耐えられなくなる。
だからそう。これでよかったんだ。
そう、自分に信じ込ませるしかなかった。
それから一ヶ月。乙瓜は本当に頻繁に病室にきてくれた。
古霊町に戻って来たのか、それともわざわざ、住み始めた場所から通っているのか。わからなかったが、そんなことはどうでもよかった。
また昔のように乙瓜に会える。それだけで大分気持ちが楽になった。
体は動かなくなっていくけれど、もういっそ、それでもいいと思った。このまま乙瓜に看取られて、幸せだと思ったまま人生を終えられれば。そのあとで魔女の食い物になろうとも、全く知ったことかと思えた。
けれど春が動き出した頃、乙瓜は再び姿を見せなくなった。
失踪ではなかった。「少しやらなければいけないことがある」と今度は確かにそう言っていたから。
けれども、また彼女に会えなくなると。再び暗い気持ちが浮かび上がってくる。
――そうだよ、殆ど寝てばかりの奴の見舞いなんて、そりゃ嫌になるに決まっている。乙瓜だって他にやることがあるだろうから、私のことばかりにかまけていられない。
わかっている。わかっている。わかっている。……だけど。
本当は、本音は。ずっとずっとずっとそばにいてほしい。
家族が来られないのは仕方ない。友人が来られないのも仕方ない。だけど乙瓜は、乙瓜だけは。面会時間もなにもなく、ずっと私のそばにいてほしかった。
ああ、ああ。結局のところ本当は私は! 聞き分けのいいことを言ったつもりで私は!
どうしようもなく強欲で、どうしようもなく愚かで、どうしようもなくわがままで――!
「死んでもいいや」というのは嘘だった。諦めたくなんかなかった。このまま死にたくなかった。
乙瓜のそばでずっとずっとずっとずっとずっと! ずっと一緒に……!
本心を頭の中で明確に言語化できてしまった、その晩。
黒い魔女が再び現れて、私に言った。
「寿命を返してあげられないこともないわ」と。
今更に、嘘くさく、けれどもそれに縋りつきたくなるような甘い言葉を。
「"期限"の前日、一度だけ命を返してあげるわ。身体が前のように動くようにしてあげる。そこで私と魔法で戦って、勝てたなら。貴女に寿命を返してあげる」
ヘンゼリーゼは顔色一つ変えずにそう言って、澱んだ紅い瞳で私を見つめていた。
罠かもしれなかった。私を生かすつもりなんて更々ないのかもしれなかった。また適当な言葉を投げかけて、人の感情が動くさまを見たいだけなのかもしれなかった。
それでもよかった。万が一にでも、私の命が帰ってくる可能性があるのなら。私はその可能性に頷いた。
闇の魔女は最初からそこまで計算づくだったのだと、ちっとも気づかないままで。
///
3、断片章『祈り』 小鳥眞虚
「どうにかしてみるね」
魔鬼ちゃんのお願いを受けた後、私は思いつく限り頼れそうな人物全員に連絡を入れた。
人脈の多い院生の先輩。乙瓜ちゃんと同じ高校出身という他学部の後輩。たまたまSNSで再会した、今は人探しを生業にしているらしい、引っ越す前の同級生。
既に短大を出て映像制作のスタジオに努めている遊嬉ちゃんに、本人曰くブラック会社でWEBデザインをしている杏虎ちゃんにも一応。それから色々調べ上げて、【灯火】の丙さんにも連絡を取ってみた。
……なんとなく、もしかしたら、そんな気がしていたのだけれど。丙さんはなにかを知っていて、敢えて隠しているような気がした。
それは完全な勘だった。けれどT県に人脈のある知り合いが「それらしい人を見たと言う人がいる」と言ってきて。次いで"人探し"の知り合いが、早くも乙瓜ちゃんと思しき写真を上げてきたことから、疑惑は99%の確信に変わった。
乙瓜ちゃんは、古霊町の隣県にいる。
確信まで、ほぼ一週間。こんなに早く特定ができたのは、多分異ちゃんや魅玄くんのお陰だった。
私はこの"調査"のごく最初の段階で、古霊町でひっそり『予言者』と呼ばれている夜都尾神社の異ちゃんと、『わかることなら全部映すことができる』という鏡の妖怪・魅玄くんを訪ねていた。
異ちゃんは、「これはぼくの分野じゃないから、あまりはっきりしたことはわからないけれど」と前置きした上で、乙瓜ちゃんは存外近くにいると思うと言っていた。
そして久しぶりに訪ねて行った北中で、魅玄くんが映し出した景色。彼は本来映すだけで、映っていないことの詳細まではわからないのだけれど。それでも、私が執念深く鏡を見つめ、わずかな写り込みから読み取った看板の地名は、確かに隣県の都市の名前だった。
だからその近辺を重点的に張っていて、結果的にそれが当たりだったというわけだ。
住んでいるマンション名。部屋番号。正確な住所。駅からの道順。全部抑えた。
私は協力してくれた知人全てにお礼の連絡を入れて、いつでも発てるようにと纏めていた荷物を掴んだ。
早朝に出発し、正午前には既にマンションを見つけていた。
念のため、調べ送ってもらった写真を何度も確認する。佇まい、名前、周囲の様子。間違いなく同じ建物に違いなかった。
今時オートロックもないところに女の子一人で住んでいるのは少し心配だなあと思ったけれど、おしかけで訪ねていく方としては都合がよかった。
玄関前まできて、インターフォンにカメラが付いていたことと、迂闊に表札をだしていないことには少し安心した。
けれども、いざチャイムを鳴らしてもリアクションがない。聞き耳を立てながら待ってみたけれど、どうも居留守という気配でもなかったので、本当に居ないようだった。
日曜日だから少し意外に思ったけれど、……まあそんなこともあるだろう。それでもかまわないと考え直す。
出発に際して架空の身内に一人亡くなってもらったので、数日くらい研究室に顔を出さなくたって許されるだろう。
さすがに一週間も十日もとなると危ういけれど、三日くらいならこの場で待ち伏せてやるつもりだった。少なくとも近隣住民に警察か管理人を呼ばれるまでは意地でもここから動かないぞと、かなり大真面目にそう思っていた。
すっかりそのつもりでいたら、乙瓜ちゃんは割とあっさりと帰ってきた。
だいぶ垢抜けたようだけど、間違いない。結構距離のある段階から、私には彼女が乙瓜ちゃんだとわかった。
乙瓜ちゃんは――すぐにはわからなかったけれど、お葬式で貰うような紙袋を提げていて、コートの下は喪服らしかった。……誰かの葬儀に行ってきた帰りらしい。
ひどく疲れた顔をした彼女は、けれど私に気付くなりビクリと驚いた表情になって。まだ私から五歩は離れているようなところで、前に進む足をピタリと止めた。
そんなに驚くことなんてないのに。そんなに怖がることなんてないのに。
……そんなに後ろめたく思うなら、はじめから事情を説明していけばよかったのに。
色々思うところはあったし、知りたいことはあったけれど。深く言及したら逃げるんじゃないかと思って、私はさっさと用件を伝えることにした。
「魔鬼ちゃんが倒れた。死ぬかもしれない。……聞いてどうするかは乙瓜ちゃんが決めて」
かもしれない、なんてものじゃない。このままだと魔鬼ちゃんは確実に死ぬ。でも私はそれを敢えて伝えなかった。伝えないまま、逃げ出しそうな友達の心に釘を刺した。
「でもたぶん、逃げたら私が許さない」
そう、許さない。決めてと言いながら卑怯だなと我ながら思うけれど、関係ない。魔鬼ちゃんからの"お願い"のためだけじゃない。ここで乙瓜ちゃんが逃げ出したら、私自身が乙瓜ちゃんを許せないだろう。正直にそう思ったから、私は敢えて鋭く冷たい言い方をしたのだ。
ねえ。乙瓜ちゃんも魔鬼ちゃんも、自覚しているかは知らないけれど。
高校生になってから、学校が離れている割には頻繁に会ったり遊びに行ったりしていることは、私にも遊嬉ちゃんたちにもちゃんとわかってたよ。
二人が互いのことが大好きで、……それがもう友達だからっていう近さじゃないことも。わからないと思ってたの?
それをはっきりと認めようとしてなかったのは、正直あなたたち二人だけだったよ?
わかってる。世間に必ずしも理解されることじゃないし、私たちがどう思ってようと、別の友達には非難されるかもしれないし。だからもしかしたら、互いに相手に拒絶されたらどうしようと思って、言えなかったのかもしれないね。
だけど少なくとも私は、二人がお互い思い合ってるって思ってるから、信じてるから。
だからもし、この場で乙瓜ちゃんが逃げ出したら。
…………私はそんな乙瓜ちゃんを見たくないから。ブランクが長かったけれど、それでも使える力全部使って。乙瓜ちゃんを殺しちゃっても構わないなんて思ってた。……危険人物だね私。
きっと、魔鬼ちゃんが同じことを言いだしたとしても、私は同じことを考えたと思う。
その先に進むことが必ずしもいい結果をもたらすとは限らない。けれど、今ここで踏み出さなかったら、魔鬼ちゃんも乙瓜ちゃんも、どちらかが死んでからもずっとずっと後悔する。
だから私は強引にでも背中を押す。行って欲しいと背中を押す。乙瓜ちゃんのことも魔鬼ちゃんのことも大好きだから、……背中を押す。
乙瓜ちゃんを魔鬼ちゃんの病室まで送り届けて、中の声を何も聞かないように耳を塞いで。私はじっと待っていた。
魔鬼ちゃんは、乙瓜ちゃんと会ったところでどうにも助からないかもしれない。この後半年かけて、どんなふうに弱っていくかも想像できない。私がしたことは、もしかしたらより過酷なことを二人に押し付けることだったのかもしれない。約束の形を借りた自己満足に過ぎないのかもしれない。
「ごめんね……」
呟いて、目を閉じて、……ああ。こんなとき火遠くんがいてくれたらなあ、と。唐突に思った。
乙瓜ちゃんを救ってくれたあの力で、魔鬼ちゃんを救ってくれたらなあ、と。……もちろんそんなことはダメだと知っているけれど。私の願うことは、きっとかつて【月喰の影】を構成していた一人一人が願ったことと大きく変わりないことなのだろうけど。実に都合のいいことなのだろうけど。
そんな都合のいいことが起こって、どうにか二人が助かればいいのに。
私は祈らずにはいられなかった。この世界の、私たちのかみさまに。
「……なんて。祈ったら水祢くんは怒るかな」
その呟きに応える人は誰も居ない。例え水祢くん本人がいたって、きっと「自分で考えれば」って突き放されるんだろうなって思う。
……うん、私は自分で考えたよ。やれるだけのことはやったとおもう。ベストじゃないかもしれないけれど、それでもこれしかないということをやったとおもう。
だからこれから先は乙瓜ちゃんと魔鬼ちゃんの二人で悩んで、折り合いをつけて、決めて行かなくちゃならないんだ。たとえ終着駅が地獄でも。……私の出る幕は終わった。
大きく、大きくため息を吐いて。私は乙瓜ちゃんを待たず、病院を後にした。
それから数か月が経って、八月の中頃。
とても暑い盛り。魔鬼ちゃんが病室から消えたと聞いたのは、少し外に出ただけでも汗が溢れるような、そんな危うい季節のことだった。
そして、後を追うように乙瓜ちゃんも姿を消す。今度はどんなに探しても、どんなに噂を辿っても。二人がどこに行ったかを突き止めることは、遂にできなかった。
二人とも死んだのだろうか。
ふと思って、けれども私は否定したかった。
二人はどこかで生きていると思いたかった。
もしかしたら、もしかしたら。私の祈りが彼方に届いて、二人は一緒に生きているんじゃないかと思った。
だって昔から、破天荒なことをしてきた二人だもの。もしかしたら二人とも人間を辞めてしまって、私にはたどり着けない場所にいて…………、
楽しく暮らしているんだ、と思いたかった。だけど涙が流れて止まらなかった。
本当は地獄にいるのかもしれない。ならそこに送ってしまったのは私だ。私のせいなのだ。
そして二人の居場所が"天国"にしろ"地獄"にしろ、私はもう二度とあの二人には会えないんだ。
「さよなら」
誰も居ない空に向けて、私は呟く。
言葉は眩暈を覚えそうな夏の大気に溶けて、後には雲一つない夏空が広がるばかりだった。
*****
2020. 8.18 初版 乙瓜と魔鬼と眞虚の話 下
[1回]