1、断片章『懺悔』 烏貝乙瓜
高校生の頃。私たちは中学時代と変わらず仲のいい友達だった。
学校は別々。だけど文化祭には遊びに行ったり来られたり。
休日にはたまに一緒にショッピングしたりテーマパークに行ったりして、行きなれない街で迷子になりかけたりして。服着せあって、おいしいもの食べて、カラオケに行って、なんでか釣りもしに行って。
楽しかった気持ちに嘘はない。
けれどもあの頃の私たちは、互いにちっとも素直じゃなかった。
「大好き」って何度も言い合った、その気持ちは本当。
だけど私の大好きは、いつからかとっくにLikeの好きじゃなかった。きっと"彼女"からの大好きも。
けれど私たちはそれに気付かないようにして、気付かれないようにして。"友達"なんだと言い聞かせて、なにも知らないふりをしていた。
そっち側の世界があることも知っていたけれど、その線を踏み越えることが怖かった。
だって。もしも。万が一。
「相手も私と同じなんだ」というのが、私だけの思い込みだったら?
拒絶されてしまったら? 関係が壊れてしまったら? 遠ざけられてしまったら?
そうなるのが怖くて、私は本当の気持ちを伝えられなかった。
――いいんだ。今だって一番の"友達"。それは簡単には変わらない。胸の内さえ伝えなければ、このままでいられる。
そうして自分の気持ちに蓋をして、何事もなかったみたいに笑っていたら、ある日。突然。
背中を食い破って、たくさんの影が生えてきた。
烏貝乙瓜は元々嘘つきだった。
巨大すぎる"影の魔"の、"闇の魚"の中からこぼれ落ちた、本来存在するはずのない人間だった。
それでも存在を認められて、引っ張り上げてもらって、やっと一人の人間になれたと思っていた。
けれども、友達だった女の子に恋をして、気持ちを伝えられないまま隠し続けた三年の果てに、私は元いたところの影に食い破られた。
『もう終わりでいいよね』それは言った。
「冗談じゃない」私は思った。
けれども影はこちらの意思にかまうことなく身体を侵食し、私の形を破壊しようとした。
烏貝七瓜に貰った姿を。
草萼火遠に救い出された姿を。
そして彼女が、黒梅魔鬼が好きだと言ったこの姿を。
そんな自分の姿を壊されないために、私は家を飛び出すしかなかった。
誰にも伝える暇などなかった。財布と護符以外になにかを掴む余裕はなかった。
ただ、今私に起こっていることを解決できそうな人のところへ向かうため。何十体もの人型となり覆い被さる影を引きずり、私は走り出すしかなかったのだ。
この影を消し去れそうな人のところへ。
すでにこの世界を旅だった火遠の師匠、丁丙師匠のところへ。
それは高校を卒業した、その日の夜だった。
痩せ始めた丸い月は、それでも高く眩しかった。
――私は。
丙師匠に異形と化した身体を半分に削られ。
自力で寝返り一つ打てない状態から、それでもたったの半月ほどで元の形に再生していく自分の身体をぼんやりと眺め。
なにも伝えることのできなかった家族や友人のことを考え。あるはずだったこれからの生活を考え。
……魔鬼のことを考え。
結局、逃げることにしたのだ。まだ戻っていくこともできたはずの場所から。
いつまた"影の魔"が生えてくるとも、完全な異形になってしまうとも知れない体を抱えたままで。
とてもではないが魔鬼には会えないと、そう思ってしまった。
私は元の場所へ戻ることを諦めた。
丙師匠が所有している『格安』『いわくつき』のワンルームを借りつつ、はとこの蜜香の仕事の手伝いをしながら暮らしていくことにした。
蜜姉は【灯火】の中では腕利きの退魔師だったから、ばかな人間の浅はかな好奇心で荒ぶってしまった強めの妖怪や怨霊・土地神を鎮めたり、場合によっては倒し封じるのが主な仕事だった。
私はその仕事に同行して、現場の混乱に乗じて暴れている小物を処理していた。
護符の一枚や二枚あれば小物の処理は終わるけれど、丙師匠の護符で身を削られたためか、私は護符に触れると痛みが走り、触れた部分が黒く変色するような体質に変わってしまっていた。
そのため、やむなく。
仕事で出かけるときにはいつでも両手に手袋をはめていたので、特に夏場は他人の視線を浴びた。
大半は奇異の視線だったけれど、ふとしたことで化け物であると知れてしまう恐ろしさに比べれば大したことはなかった。加えて、再生以来真っ黒になったままの嫌な爪も隠せるので、私にとっては一石二鳥だった。
大丈夫。これを隠してさえおけば、私は人間でいられるから。
けれども、古霊町に帰る勇気も、魔鬼に連絡を取って会いに行く勇気も。依然としてちっとも、私の中に存在してはいなかった。
順当に大学生活を送っていたならば、魔鬼はもう三年生も終わりという時期だった。
元気だろうか。
学生生活は順調だろうか。
サークルなどには参加しているのだろうか。
就活などは進んでいるのだろうか。
……彼氏ができたりしたのだろうか。
「もう、付き合っている人がいたら」
呟いた直後、形容しがたい気持ちが自分の中で波紋のように広がるのを感じた。
それは嫌悪だったのか。嫉妬だったのか。拒絶だったのか。怨念だったのか。怒りだったのか。いずれにせよ、決してポジティブな感情ではなかった。
しかし私は直後ハッとして、黒い気持ちを否定するように頭を降った。
そしてわざとらしく声に出す。自分に言い聞かせるように。
「いたら……それでもいいじゃないか」
そうだ。いいんだ。魔鬼が自分で選んだことなら、誰だって、彼氏じゃなくて彼女でも。……それでいいはずなんだ。
なにも言わずに消えたやつのことなんか忘れて、今幸せならそれでいいじゃないか。私じゃなくても、いいじゃないか。
そう思って、思って、気がついたら涙が溢れて留まらなかった。
どのあたりから泣いていたかなんてわからない。気付かないまま、私は号泣していたのだった。
そしてやっと、そのときやっと、私は私の黒い感情の正体に気付いた。
あの瞬間自分の中に広がったのは、嫌悪であり、嫉妬であり、拒絶であり、怨念であり、怒りであり――後悔だったのだ。
逃げ出したままの自分に対しての。
またなにも伝えないまま隠れ過ごしている自分に対しての。
とても、とても当たり前のことだが、伝えなかったことは誰にも伝わらないのだ。
私はその日夜まで泣いて、……それから決意した。
次に蜜姉を手伝う大きな仕事が終わったら、一旦古霊町に帰ろう、と。
古霊町に帰って、それで……未だに魔鬼が古霊町に暮らしているとも限らないが、……いや! とにかく私の知っている彼女の自宅まで行けば、どうにか連絡がとれるはずだ!
だから帰って、伝えるんだ。
いなくなったことを謝るんだ。
好きだったことを、今でも好きだということを伝えるんだ。
そこで罵られても、絶交されても、何も伝えずに消えるより百万倍マシだ!
私は決意して、蜜姉と共に山へ出掛けた。
そして――負けたのだ。
……いや、勝った……のだろう。
とある山に出る荒ぶるモノとの戦いだった。蜜姉はその戦いで明らかな致命傷を負った。
だから私がそれを倒した。護符を全て吹き飛ばされて、……だからこの化け物の身体で、化け物の力でとどめを刺した。
ナイフのように鋭利に刺さるこの爪で。
槍のように尖り貫くこの骨組みの翼で。
蜜姉は「よくやったね」と誉めてくれたけれど、その命の灯火は間もなく消えようとしていた。
生きてくれと願った。
蜜姉ははとこだし、恩人だし、……何よりその頃は長い付き合いの彼氏と結婚を考えているようで、……やたらと酸っぱいものをつまむようになったものだから、「そういうことか」と呆れたりもしたけれど、それでも嬉しかったから。
生きて助かってほしいと、切実に願った。
全員で生きて帰りたかった。
けれども蜜姉は段々返事をしなくなって、冬の寒さを超えて冷たくなって。
私は結局、前にも後ろにも動けなくなった。
その後、生まれて初めて警察の取り調べというものを受けた。……もしかしたら二度目だったかもしれないが、前のことはよく覚えていないので、実質初めてだと思う。
なぜ冬山にいたのか。
なぜ蜜姉が致命傷を負うに至ったか。
あれこれ聞かれたけど、辻褄の合う嘘なんて思い浮かばなかったし、もう開き直ってありのまま見たこと全部喋ってしまった。
きっと頭のおかしい女だと思われただろう。あるいは、狂人のふりをして犯罪を隠しているとでも思われただろうか。
なかなか解放されなかったけれど、そのうち丙師匠が来て、なにをどう説明してくれたのか、私は解放された。
解放された、その後で。
やってきていた蜜香の彼氏に胸座を掴まれて、彼の思い浮かぶ限りの罵倒の言葉を頂戴した。
まだ警察署内の出来事だった。
当然のように近くの警官にやめなさいと割って入られて、彼の手が私から放れて。諫められながらもわめき続ける彼が、次第に涙声になっていくさまを見て。
私はどこか他人事のように、「可哀想だな」と哀れんでいた。
もちろん見下していたわけでもないし、余裕があったわけではない。
ただそのときだけは、目に映るもの全部フィクションみたいに感じられて。映画やドラマのワンシーンを、画面の外から眺めているみたいに思えて。全然自分事の実感がなかった。
そこからどうやってマンションまで帰ったか、ちっとも覚えていない。
気がついたら夕方で、なんでか『レモン牛乳』の入ったコンビニ袋を持って部屋の中に突っ立っていて。それを万年床の横に雑に置いたまま、シャワーも浴びずに横になって。朝になって。
ねぼけたまま『レモン牛乳』を飲み始めて、そのときやっと。「ああ、蜜姉本当に死んじゃったんだな」と。心の底から実感した。
それから部屋の隅にまとめた荷物を見て、そういえば古霊町に帰ろうとしていたことを思い出して。
けれども、全然その気にはなれなかった。
くたびれて動く気もしないうちに、蜜姉の葬儀になった。
その席で久々に見掛けた古霊町の家族の姿と、ずっとこちらを睨んでいる蜜姉の彼氏の視線に顔を伏せて。
ほとんど逃げるように斎場を去った、その後で。
私はマンションの自宅前で待つ小鳥眞虚に再会し。
そして私は、黒梅魔鬼が死に瀕していることを知ったのだ。
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2、断絶章/呪詛 黒梅魔鬼
高校生の頃。私たちは中学時代と変わらず仲のいい友達だった。
学校は別々。だけど文化祭には遊びに行ったり来られたり。
休日にはたまに一緒にショッピングしたりテーマパークに行ったりして、行きなれない街で迷子になりかけたりして。服着せあって、おいしいもの食べて、カラオケに行って、なんでか釣りもしに行って。
楽しかった気持ちに嘘はない。 けれどもあの頃の私たちは、互いにちっとも素直じゃなかった。
「大好き」って何度も言い合った、その気持ちは本当。
だけど私の大好きは、いつからかとっくにLikeの好きじゃなかった。きっと"彼女"からの大好きも。
けれど私たちはそれに気付かないようにして、気付かれないようにして。"友達"なんだと言い聞かせて、なにも知らないふりをしていた。
そっち側の世界があることも知っていたけれど、その線を踏み越えることが怖かった。
だって。もしも。万が一。
「相手も私と同じなんだ」というのが、私だけの思い込みだったら?
拒絶されてしまったら? 関係が壊れてしまったら? 遠ざけられてしまったら?
そうなるのが怖くて、私は本当の気持ちを伝えられなかった。
――いいんだ。今だって一番の"友達"。それは簡単には変わらない。胸の内さえ伝えなければ、このままでいられる。
そうして自分の気持ちに蓋をして、何事もなかったみたいに笑っていたら、ある日。突然。
彼女は、私の前から姿を消してしまった。
黒梅魔鬼は元々ずるい女だった。
友達に恋人役を押し付けて、離れていかないように縛り付けていた。
別々の道を歩んでいても、友達は友達。
そんなことはわかってた。だけど、開いてしまった距離の分だけ心も離れていくような気がして。
乙瓜が私の知らない友達について嬉しそうに語るのが許せなかった。自分だって乙瓜の知らない友達の一人や二人いるくせに。
遊嬉や、他のだれかが誰と友達になって誰に告白されて誰と付き合っても、大して思うことなんてなかったのに。
どうしてなんだろう。
乙瓜のことだけは、自分の近くに縛り付けておきたかった。
少し気持ちの脆い彼女に寄り添うふりをして、本当は私の方が彼女に重くのしかかっていた。
私はつくづく自分勝手だ。
だからこの気持ちだけは、決して知られてはいけなかった。
もし。もし、冗談ではなくて本当に、「あなたのことが好きなんだよ」と伝えて、拒絶されたら。たぶん、私はどうにかなってしまう。
どうにかなって、ずっと隠していた心の中の醜い部分が私の中からあふれ出して。きっと乙瓜を傷つけてしまう。
だから……、だから乙瓜がいなくなったとき。
私は自分の心の裡が読まれていたんじゃないかと思って、本当にゾッとしたんだ。
――『何度だって捜しに行く』。
三年前の青い約束。
乙瓜がまだ覚えているかわからない、きれいな約束。
それを果たそうとする自分がいる。
けれど、臆病な自分がそれを止める。
もし乙瓜を見つけたとして、彼女は一体私になんて言う?
もしも、「近付くな」なんて言われたら。
「お前が嫌いになったんだ」なんて言われたら。
「友達だと思ってたのに。そういう目でみてたのか」なんて言われたら。
そのイフが怖くて。
私は結局人生の、自分が敷いた"王道"というレールの上を流れていくしかなかったんだ。
本当は、本気になれば。人脈の限りを尽くして、魔法の限りを尽くして。乙瓜を捜すことができたのに。
私は結局、ずるい女のままだった。
そうやって、後ろ暗い気持ちを抱えたまま。間もなく三年が過ぎようとしていた冬。
私は倒れた。
昼間の大学にいたはずなのに、気がつけば病院のベッドの上だった。
傍らにはもううちの親がきていて、外は――カーテンでよく見えないながらも、様子からして――既に夜中みたいだった。
倒れたと知ったのはそのときで、自覚はさっぱりなかったし、救急車が来たなんてことも知らなかった。
「多分貧血だろう」と言われた。
気を失っているうちに色々と検査をしたらしいけれど、血液、血圧、CT、どれも異常なし。なんともないから帰ってもいいと言われたときは心底ホッとした。だからそのまま起き上がって、立ち上がろうとして――私はその場にばたりと倒れた。
私は立ち上がれなくなっていた。
ほんの数時間前まで平気で立って歩いていた両脚は、動きはするのだけれど、ちっとも力が入らなくなってしまっていた。
私は困惑した。
まるで役に立たない二本の棒が、なにかの間違いで胴体にくっついているみたいな感覚だった。
だから、もう成人しているというのに、小さい子供ではないというのに。取り乱してしまって、自律神経が落ち着かなくなってしまって。涙が出てきて。家族や医師・看護師さんたちを困らせてしまった。
それから家族と病院の間で一悶着二悶着あって、私はそのまま入院することになった。
倒れたこともあって脳の障害を疑われたのか、入院してから特に脳を念入りに検査されたけれど、大きな異常はみつからなかった。腫瘍の影もなく、脳梗塞の兆候や痕跡もない。血栓らしい血栓もなし。
私は医学的には健康体そのもので、けれども確実に弱っていった。
立って歩くことができないのだから、体力はだんだん衰えてくる。当初は意欲を持ってリハビリに臨んでいたものの、日に日に脚を動かすのも困難になり、私の気持ちはみるみる萎えた。
悪いことはそれに留まらなかった。
気分の落ち込みに比例するように、やはり原因不明の吐き気や頭痛が襲ってくるようになってしまったのだ。
酷いときには吐瀉物に混じって血が出るものだから、周囲はますます困惑していた。その身体の主である私さえもだ。
眠ったらそのまま三日が過ぎていたことがあった。一方で、全身に痛みが走って眠れない日が続くことも珍しくはなかった。
私の自由は日に日に狭められて、一日毎に確実に悪い方へと向かっているようだった。
そんな調子が続くものだから、最初心配してお見舞いにきてくれた大学の友人たちも、次第次第に姿を見せなくなっていった。
付き合っても大して得もない私のことが、いよいよ疎ましくなったらしい。
……いや。それはさすがに考え過ぎだろう。
だって、みんなそろそろ四年生なのだから。就活やら卒論やら、私一人にかまけていては出来ないことが山ほどあるのだから。
……だからこれはそう。仕方ないことなのだ。やむを得ない事情なのだ。
自分に言い聞かせるが、内心はやはり孤独だった。
もはや唯一の頼りは血のつながった家族だけとも思えた。
だが、家族も毎日毎晩私につきっきりというわけにはいかない。それぞれにやらねばいけない仕事があり、家事があり、用事がある。
それは入院が長引くほどに顕著になっていった。
当然だった。容態はじわじわと悪化しているものの、今にも死にそうというわけでもないのだから。
私のこの現状は。誰かの日常の歯車を止める理由としては、あまりに弱く小さかった。
……それだけの、ことなのだ。
一週間。二週間。
たまに医師や看護師が様子を見にくる以外、誰も訪れない日が増えていく。
それが辛くて。悲しくて。なのに動けなくて。ただ天井を見つめているしか出来ない日が、何日もあった。
はじめの頃は本を読んでやり過ごす気力もあったけれど、一月を越した頃にはすっかりそんな気力も失せていた。
そんなある日、いつかの昼下がり。
「呪いみたい」
病室の前を通りがかった看護師のひそひそ話がたまたま聞こえた。
多分私のことだろう。けれど不謹慎だと憤るよりも、そうかと納得する自分がいた。
ずっと前から知っていたじゃないか。
幽霊や、妖怪や、魔術呪術の存在を。
知っていたのに。その可能性にすぐに思い至れないほど、私はそこから遠ざかってしまった。
あの日乙瓜がいなくなって。わざわざ関わることもなくなって。それ以来。
……だけど気づいたからどうだというのか。こんなに弱った私独りにどうしろというのか。
なにもかもが手遅れだった。
ここにはもう、あの頃みたいな"みんな"はいない。
ここにはもう、乙瓜はいない。
やっと気付いた私を嘲笑うかのように、その晩ベッドの横に
黒い魔女が立った。
『あと半年』
あと半年。あと半年で、私の命は尽きる。
尽きて、そして、私の全部がヘンゼリーゼのものになって、私がなくなる。
「嫌だ……嫌だ……」
いずれ訪れるその日に怯えて泣きながら、私は強く強く後悔した。
どうしてあのとき、乙瓜を捜しに行かなかったんだろう。
悔いて、それから恨む。
……どうして乙瓜は戻ってこないのだろう。
逆恨みだと知りながら。憤る。
どうして乙瓜は。今、私の隣にいないのだろう。
今頃、乙瓜は。
私のことなんて忘れたのか。
知らないところで笑っているのか。
知らないところで知らない誰かと。
私を忘れて生きているのか。
「どうして」
思わず零れ出た、その呟きは呪いだった。
呪われ死にゆくこの身の全てで、私は一晩烏貝乙瓜を呪った。
どうして姿を消したのか。
どうして会いに来ないのか。
どうしてなにも伝えようとしないのか。
どうして、……どうして私を裏切ったのか!
「どうして乙瓜は――!」
それは呪いであって、祈りだった。
ただ会いたいという、執念にも似た祈りだった。幼い子供の時分に、実態も知らない『かみさま』や『ごせんぞさま』、『おほしさま』に願ったようなお祈りだった。
――『どうか私に会いに来て』。
つくづく私は自分勝手だ。
その翌朝のことだった。
小鳥眞虚が、眞虚ちゃんが、二週間ぶりに私の病室を訪ねてきたのは。
///
3、断片章『願い』 小鳥眞虚
魔鬼ちゃんが倒れ入院していると聞いて、私はすぐに病院に駆けつけた。
その頃私は県外の大学で植物の研究をしていたけれど、報せを受けたときは運良く時間に都合がつけられたから、急いで古霊町まで帰ってきたんだった。
久々に魔鬼ちゃんは、最後に会ったときよりも大人っぽくなっていたけれど、……パッと見、本当に本人かと疑うくらいにはやつれていた。
私のところまで情報が来るのが遅く、この時点で三週間ほどは入院していたようだが……。それにしたって、魔鬼ちゃんはあまりにも弱りすぎのように思えた。
「どうしたの?」
「わからない。検査じゃ健康体なんだけど、脚に力が入らないんだ」
力なくあははと笑う魔鬼ちゃんの目は、すっかりもう笑っていなかった。
どうすればいいんだろう。私は考えるが、医学系ですらない一学生にできることなんて、そこにはちっともありはしなかった。
だからせめてもの悪あがきとして。私は魔鬼ちゃんの回復を祈って、祈りの護符を舞わせることしかできなかったのだった。
……意味がないのはわかっていた。この護符は原因のはっきりしている外傷などについては大きな効果があるものの、原因の特定できない病については驚くほど無力だ。一時的になら痛みや不調を和らげるだろうが、それでは根本的な解決にはならないのだ。
……経験も知識もある医者にも掴めない原因を、どうして私が特定できるだろう。 私は自分の無力さを悔やんだ。
けれども、だからこそ結局何もできないまま。魔鬼ちゃんのことを気にする暇もなく、ほとんど研究室に寝泊まりしているような日々が二週間ほど続いた。
再び魔鬼ちゃんのお見舞いにいけたのは、暦の上では間もなく冬が終わるころだった。
魔鬼ちゃんは相変わらず具体が悪そうで、……前よりも更に細くなったように見えた。
けれど、その目だけは妙に生き生きしていて。ぎらぎらしていて。動物園の、野生を奪われた
フリをしている獣みたいで。
先々週とは違った意味で、まるで別人のようだった。
「もうすぐ、乙瓜の誕生日だよね」
魔鬼ちゃんはギラリとした瞳で私を見つけるなり、唐突にそう言った。
乙瓜ちゃんの、誕生日。そういえばそうだった。
三年前に突然姿を消した乙瓜ちゃんの誕生日は、もう明後日に迫っていた。
けれど私は「そうだね」と頷くでもなく、ただ魔鬼ちゃんの言葉に驚いていた。
魔鬼ちゃんが乙瓜ちゃんのことを話すのは、三年前のあの日以来、初めてのことだった。
三年前。乙瓜ちゃんが姿を消した直後。抜け殻みたいになってしまった魔鬼ちゃんの姿は、今でもちゃんと覚えている。
あれから私も暇を見つけてはあちこち聞きまわったりしてみたけれど、乙瓜ちゃんの行方は未だにわからない。
もっと本腰を入れればなにか掴めるものもあるのだろうけれど、新生活の準備を始めなければならなかった当時の私には、そこまでする余力はなかった。
……そうだ。乙瓜ちゃんは。今頃どうして。
そう思ったとき、魔鬼ちゃんは妙ににこにこした顔で言った。
「私ね、半年後に死ぬんだって」
絶句した。きっと私の表情は凍り付いていた。
魔鬼ちゃんはにこにこしている。怖いくらいに。そのまま言葉を続ける。
「呪いなんだってさ。ていうか、自分で了承してて忘れてたことなんだってさ。契約なんだって。小学生の頃に同意してたんだって。だから私死ぬんだ」
「……して、」
そこでやっと言葉が出た。
「どうしてそんなこと言うの!? 魔鬼ちゃん、死んじゃうのが怖くないの!?」
「怖いよ」
思わず叫んだ口を塞いだ直後、魔鬼ちゃんは真顔で言った。
「怖くないわけないじゃん。死んじゃうんだよ。死んじゃって、身体だけがヘンゼリーゼのものになるんだよ。私じゃなくなっちゃうんだよ」
声はだんだん震え出した。骨ばった指を掛け布団に食い込ませて、魔鬼ちゃんはぽろぽろと泣いていた。
「……助けられないの」
「眞虚ちゃん知ってるじゃん。……"契約"は絶対なんだよ」
「…………」
私は何も言い返せなかった。あちらのものとの契約は絶対だと知っている。それを打ち崩すにはより大きな契約が必要だけれど、……私の時でさえ一筋縄では行かなかったのだ。魔鬼ちゃんの体力が弱った今、それに耐えられるかどうかわからない。
「……死にたくない。でも死ぬしかない。……ねえ眞虚ちゃん。よければ"お願い"、聞いてくれる?」
魔鬼ちゃんは俯いたままで言った。私は「うん」と頷いて、彼女の近くに身を寄せた。
「私にできることなら、言って」
そうしたら、魔鬼ちゃんは私の腕をぐっと掴んでこう言ったんだ。
「もう一度、乙瓜に会いたい」
*****
2020. 8.17 初版 乙瓜と魔鬼と眞虚ちゃんの話
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